寒い夜の自我像

きらびやかでもないけれど
この一本の手綱(たずな)をはなさず
この陰暗の地域を過ぎる!
その志(こころざし)明らかなれば
冬の夜を我(われ)は嘆(なげ)かず
人々の憔懆(しょうそう)のみの愁(かな)しみや
憧れに引廻(ひきまわ)される女等(おんなら)の鼻唄を
わが瑣細(ささい)なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。

蹌踉(よろ)めくままに静もりを保ち、
聊(いささ)かは儀文(ぎぶん)めいた心地をもって
われはわが怠惰(たいだ)を諫(いさ)める
寒月(かんげつ)の下を往(ゆ)きながら。

陽気で、坦々(たんたん)として、而(しか)も己(おのれ)を売らないことをと、
わが魂の願うことであった!

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ひとくちメモ

「寒い夜の自我像」は
中原中也の詩が
初めて「活字」になったことで知られる
節目を示す作品です。

この詩は
昭和4年(1929年)4月
「白痴群」の創刊号に発表されました。

小学校時代から短歌に打ち込み
大正9年(1920年)、
中学入学前の12歳の時
幾つかの作品が
「婦人画報」や
地元・山口の「防長新聞」に掲載されたのを振り出しに
その後も、防長新聞への投稿は続けられ
中学3年、15歳の時には
私家版の歌集「末黒野(すぐろの)」を上級生らと
連名で発行したりしてきた詩人が
詩を活字にしたのは
この「白痴群」が初めてだったのです。

満22歳の誕生日が目前でした。
早熟だった詩人としては
遅いスタートといえるのですが
泰子と二人で東京に出てきて
その泰子との離別のドラマのただ中での
同人誌発行は
起死回生のチャンスでもありました。

その創刊号に
「詩友に」という作品とともに発表したのが
「寒い夜の自我像」で
この2作品には
詩人の尋常でない意気込みが込められています。

詩集「山羊の歌」に収められた
「寒い夜の自我像」は
「白痴群」に発表された3節の詩の
第1節を独立させたものです。

原形(第一次形態)から
第2節と第3節をカットした詩であるということ、
長い詩を短い詩にしたということ。
この改変には
詩人の戦略が込められたのですし
宣言が込められました。

その詩の第1連第7行

憧れに引廻される女等の鼻唄を

は、女優への夢を追う長谷川泰子のことを歌っています。
その恋は
現実では失われつつありました。
詩にはその反映があります。

だからといって
この詩は単なる失恋の詩なのではありません。

失恋の詩でありながら
「志」を述べ
詩人のスタンスを宣言し
魂のありようを歌い
詩論を展開し
思想を語る……

同人詩創刊号の
巻頭詩の位置をしめるこの詩が
恋愛の詩であっても
恋愛だけに終わることのない詩になったのは
こうした背景があったからです。

色々なものを失って
詩人が拠り所とするのは
詩しかないという地点。

この一本の手綱
その志
静もりを保ち
儀文(=かたち)めいた心地をもって
陽気で、
坦々として、
己を売らないわが魂

これらは
きらびやかにはなりようがないものです。

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