修羅街輓歌

       関口隆克に

   序 歌

忌(いま)わしい憶(おも)い出よ、
去れ! そしてむかしの
憐(あわれ)みの感情と
ゆたかな心よ、
返って来い!

  今日は日曜日
  椽側(えんがわ)には陽が当る。
  ――もういっぺん母親に連れられて
  祭の日には風船玉が買ってもらいたい、
  空は青く、すべてのものはまぶしくかがやかしかった……

     忌わしい憶い出よ、
     去れ!
        去れ去れ!

   Ⅱ 酔 生(すいせい)

私の青春も過ぎた、
――この寒い明け方の鶏鳴(けいめい)よ!
私の青春も過ぎた。

ほんに前後もみないで生きて来た……
私はあんまり陽気にすぎた?
――無邪気な戦士、私の心よ!

それにしても私は憎む、
対外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。

いま茲(ここ)に傷つきはてて、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
おお、霜にしみらの鶏鳴よ……

   Ⅲ 独 語(どくご)

器(うつわ)の中の水が揺れないように、
器を持ち運ぶことは大切なのだ。
そうでさえあるならば
モーションは大きい程いい。

しかしそうするために、
もはや工夫を凝(こ)らす余地もないなら……
心よ、
謙抑(けんよく)にして神恵(しんけい)を待てよ。

   Ⅳ

いといと淡き今日の日は
雨蕭々(しょうしょう)と降り洒(そそ)ぎ
水より淡き空気にて
林の香りすなりけり。

げに秋深き今日の日は
石の響きの如(ごと)くなり。
思い出だにもあらぬがに
まして夢などあるべきか。

まことや我(われ)は石のごと
影の如くは生きてきぬ……
呼ばんとするに言葉なく
空の如くははてもなし。

それよかなしきわが心
いわれもなくて拳(こぶし)する
誰をか責むることかある?
せつなきことのかぎりなり。

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ひとくちメモ

「中原中也全集」解説・詩Ⅰ(1967年10月)で
大岡昇平は、

(略)高森文夫の証言によれば最初に考えた題は
「修羅街輓歌」だったという。

──と、「山羊の歌」という詩集名が、
はじめ「修羅街輓歌」だったことを
明らかにしています。
戦略的に重要な位置にあった詩であるということです。

その詩にたどりつきました。
これも献呈されています。
相手は関口隆克です。

関口隆克は
後に、文部省大臣秘書課長を振り出しに
国立教育研究所長などを経て
開成学園中学、高校の校長となる人物で
1987年に亡くなります。

昭和3年(1928年)9月、中也は
豊多摩郡高井戸町(現杉並区)の関口の下宿に合流し
石田五郎と3人の共同生活を経験しました。
修羅は、
「春と修羅」(宮沢賢治)の修羅らしいのですが
修羅街としたところが中也です。

修羅街とは、東京のことでしょうか?
その街への挽歌とは
そもそも逆説でありましょうか。

それとも
あばよ!東京!
さよなら、グッバイ!
ストレートな
東京への離別宣言なのでしょうか。

詩集「在りし日の歌」の
後記の最終行

さらば東京! おお わが青春!へと、

まっしぐらに連なる意識が
すでにここにしている
と言えるのでしょうか。

いずれは
東京に別れを告げる詩人ですが
早くもこの時点での挽歌です。

4連に分けられたⅠは
「序の歌」
のっけから激しく
暗い思い出が
消えてなくなることを望む
詩人の心情が吐き出されます。
なくなれ! と命令して
なくなるものではありませんが
命令するのです。

思い出したくもない
いまわしい思い出よ
消えてなくなれ!
そして、昔の
憐れみの感情と豊かな心よ
戻って来い!

こう思っている今日は
穏やかな日曜日です。
ときおり、少年時代が懐かしく
思い出されもするのです。

Ⅱは「酔生」と題されています。
ただちに「酔生夢死」という
四字熟語が浮かびます。
その「夢死」のほうが気になるのですが
題は「酔生」のほうが採られました。

僕の青春は過ぎていった。
──おお、この、寒い朝の鶏の鳴き声よ
しぼり出すような叫びよ。

ほんとのこと
前後も省みず
がむしゃらに生きてきたものだ。

僕はあまりにも陽気だった。
──無邪気な戦士だったなあ、僕のこころよ

それにしても僕は憎む
上辺(うわべ)をとりつくろい
対外意識だけで生きている人々を。
──なんと逆説的な人生であることよ。

いま、ここに傷つき果てて
──この、寒い朝の鶏鳴よ
しぼり出すような叫びよ
おお、霜に凍えている鶏鳴よ……

Ⅲは「独語」

器の中の水が揺れないように
器を持ち運ぶことは重要であり
そうであるならば、
大きなモーションで運ぶがいい。

しかしそうするために
もはや工夫することさえやめてしまうのは
いかんいかん。

そんなふうになるんだったら
心よ
謙虚に神の恵みを待つがいい。

Ⅳは、題なし。
文語調に転じます。

とてもとても淡い今日
雨がわびしげに降り注いでいる。

「雨蕭々と」は
「史記」「刺客列伝」の
風蕭々として易水寒し、
を意識しているのでしょうか。

空気は水よりも淡く
どこからか林の香りがしてくる。

ほんとに秋も深くなった今日は
石の響きのような
無機質な生気のない日になった。

思い出さえもないのに
夢なんてあるものか。

ほんとに僕は石のように
影のように生きてきた。

何かを語ろうとしたときには言葉がなく
空のように果てしなく
とらえどころなく

悲しい僕の心よ
理由もなく拳をあげて
誰を責めようとするのか。
ああ切ない切ない。


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