春は土と草とに新しい汗をかかせる。
その汗を乾かそうと、雲雀(ひばり)は空に隲(あが)る。
瓦屋根(かわらやね)今朝不平がない、
長い校舎から合唱(がっしょう)は空にあがる。

ああ、しずかだしずかだ。
めぐり来た、これが今年の私の春だ。
むかし私の胸摶(う)った希望は今日を、
厳(いか)めしい紺青(こあお)となって空から私に降りかかる。

そして私は呆気(ほうけ)てしまう、バカになってしまう
――薮かげの、小川か銀か小波(さざなみ)か?
薮(やぶ)かげの小川か銀か小波か?

大きい猫が頸ふりむけてぶきっちょに
一つの鈴をころばしている、
一つの鈴を、ころばして見ている。

<スポンサーリンク>

ひとくちメモ

「六月の雨」
「雨の日」と
雨の詩を続けて配した後で
10番目「春」
11番目「春の日の歌」と、
こんどは、春が連続して配置されました。

「春」は、
昭和4年(1929)の「生活者」9月号に
発表されています。
中原中也22歳。
この年に
同人誌「白痴群」が創刊されます。

制作は、特定されていませんが、
初稿は大正14、15年頃にも遡れる
初期のものらしい。

悲しみの詩人にも
こんなひとときがあったのだ、と
ほっとする思いで読める作品です。

第3連

私は呆気(ほうけ)てしまふ、バカになつてしまふ

は、自己への諧謔と読めなくはありませんが、
ここは、
幸福な時間を読むだけでよしとします。
瓦屋根ですら、
今朝は不平がないのですから。

第4連の猫は
猫であると同時に
詩人の姿が重なっています。
鈴をころばしている
ころばして、それを見ている。

遊んでいて
遊んでいることを見ている詩人がいます。

ころがす、ではなく、
ころばす、としていますが
この差異にはこだわらないほうがよいでしょう。

春になると
土や草に光沢が出て
まるで汗をかいたようになる
その汗を乾かそうとするかのように
ひばりが空にまっすぐあがり
民家の瓦屋根は穏やかな陽をあびている
細長い校舎からは清らかな合唱の声が立ち上っている

ああ、静かだ静かだ
ぼくにも、めぐってきた
これが、今年の春だ
むかしぼくの胸を躍らせた希望は
今日というこの日
混じり気のひとつもない
怖いような群青色の青となって
ぼくに降りかかってきている

ぼくは、呆けてしまう
馬鹿になってしまい……
これは、藪かげを流れる
小川か銀のような小川か漣(さざなみ)か

目の眩む光の乱舞の中で
ぼくは幻を見る

すると
大きな猫が振り向いて
ぶきっちょに
ひとつの鈴を転がしている
ひとつの鈴を転ばしては
鈴を見ている
そして、また、転ばしている

最終連は
白日夢。
その中に現れる猫は
詩人――。


<スポンサーリンク>