夏の夜

ああ 疲れた胸の裡(うち)を
桜色の 女が通る
女が通る。

夏の夜の水田の滓(おり)、
怨恨(えんこん)は気が遐(とお)くなる
――盆地を繞(めぐ)る山は巡るか?

裸足(らそく)はやさしく 砂は底だ、
開いた瞳は おいてきぼりだ、
霧(きり)の夜空は 高くて黒い。

霧の夜空は高くて黒い、
親の慈愛(じあい)はどうしようもない
――疲れた胸の裡を 花弁(かべん)が通る。

疲れた胸の裡を 花弁が通る
ときどき銅鑼(ごんぐ)が著物(きもの)に触れて。
靄(もや)はきれいだけれども、暑い!

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ひとくちメモ

「夏の夜」は、
難解な作品です。
昭和4年(1929年)、
「生活者」9月号に発表されました。

制作は、大正14年あたり、
と推定されていますが、
上京以前か以後かは
わかりません。

第1連は、
夏の夜の
眠れないほどの暑さの中で
ある女性が思い出されます。
この作品が、女を歌った詩だ、と、
これで分かります。

桜色は、ピンクではないです。
ピンクより淡く
桃色に近い桜色。

それにしても、桜色の女とは、
なんだか色っぽい。
この女性が
長谷川泰子であるか否かに
こだわる必要はありません。

そして、第2連、

夏の夜の水田(すいでん)の滓(おり)、
怨恨は気が遐(とほ)くなる

水田の滓、とは何でしょう
怨恨は気が遠くなる、とは何でしょう

さらに、

――盆地を繞(めぐ)る山は巡るか?

に、立ち止まります。

女と怨恨なのだから、
なにやらドロドロした物語か? と
ぼんやり受け止めておきます。

第3連に進み、

裸足(らそく)はやさしく 砂は底だ、
開いた瞳は おいてきぼりだ、

で、また、立ち往生します。

ここは、ダダの名残(なごり)でしょうか
あるいは、横光利一とか川端康成ら
新感覚派の表現の摂取でしょうか
などと、
考えあぐねるところです。

色々な影響を受けたり、
模倣したりは、
創作の基本ですから、
などと、
思いめぐらすものの、
やっぱり、
これは、ダダと見なします。

裸足(らそく)はやさしく、は
女の裸足(はだし)は、優しい、美しいものさ

砂は底だ、は
砂というものは、底があるから、砂なのさ、か
砂には、必ず、底がある、か
怨恨や女にからんだ、ダダ的表現……。

女を思い
その怨恨に気が遠くなり
気が遠くなって大きく開けた目は
置き去りにされます。
霧深い夜空の、
高くて黒い、闇の中に……。

その闇の中に
親父が現れても、
どうしようもないのです。

……。

靄(もや)はきれいだけれども、暑い!

ああ、暑い暑い
夏の夜です。


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