雪の賦

雪が降るとこのわたくしには、人生が、
かなしくもうつくしいものに――
憂愁(ゆうしゅう)にみちたものに、思えるのであった。

その雪は、中世の、暗いお城の塀にも降り、
大高源吾(おおたかげんご)の頃にも降った……

幾多(あまた)々々の孤児の手は、
そのためにかじかんで、
都会の夕べはそのために十分悲しくあったのだ。

ロシアの田舎の別荘の、
矢来(やらい)の彼方(かなた)に見る雪は、
うんざりする程永遠で、

雪の降る日は高貴の夫人も、
ちっとは愚痴(ぐち)でもあろうと思われ……

雪が降るとこのわたくしには、人生が
かなしくもうつくしいものに――
憂愁にみちたものに、思えるのであった。

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ひとくちメモ

雪が降ると、人生が
かなしく
うつくしい
憂愁に満ちたものに思えるのでした。

その、雪っていうのは、中世の、
戦国時代の城の塀にも降り
赤穂浪士・大高源吾の活躍したころにも降りました。

いつであろうと、雪は降り
たくさんの孤児たちの手は
雪のためにかじかんできました、
きょうこの頃の、都会の夕べにあっても
詩人のこころを悲しくさせるのに十分でした。

ロシア革命で揺れる
ロシアの田舎の別荘の
矢来の向こうに広がる
ツンドラ(凍土)の雪も、
うんざりするほど
凄まじく強大で、永遠になくなりそうにもありません。

雪の降る日には
貴婦人たちも
愚痴の一つを口にしていますよ、きっと。

ああ、雪が降ると、
雪が降ると、
人生を思い、
かなしく
うつくしい
憂愁に満ちたものに思えるのでした。

「時間芸術」などという言い方は
旧式なのかもしれませんが
文学、とくに小説や詩は
遠い日への回想とか
古代や有史以前へのワープとか
未来への空想とか……
幻視し幻想し
変幻自在に時間の中を泳ぎ
時空を超えることが得意です。

中原中也の作品にも
歴史に材を取りながら
歴史的時間を超えて
江戸時代と
ロシア革命の時代とを
自在に行き来する眼差しで作られた
このような詩がいくつかあります。

「雪の賦」は
詩集後半、37番目にあり
昭和11年(1936年)3月ごろの作。
初出は「四季」昭和11年5月号でした。


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