独身者

石鹸箱(せっけんばこ)には秋風が吹き
郊外と、市街を限る路(みち)の上には
大原女(おはらめ)が一人歩いていた

――彼は独身者(どくしんもの)であった
彼は極度の近眼であった
彼はよそゆきを普段に着ていた
判屋奉公(はんやぼうこう)したこともあった

今しも彼が湯屋(ゆや)から出て来る
薄日(うすび)の射してる午後の三時
石鹸箱には風が吹き
郊外と、市街を限る路の上には
大原女が一人歩いていた
 
 
(注)原文には、「よそゆき」に傍点がつけられています。

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ひとくちメモ

読んで
これはいい詩だなあ、
と思うのですが
意味や内容を隅々まで理解できているかわからない
論理的に、
これはこうで、あれはあれで、
ここはこうなっているから、
こっちはこうでなければ、
などと
把握しきったとは言えない
奥の深い詩です。

39番「独身者」は
このような感想を抱かせる
知られざる傑作の類に
入る作品ではないでしょうか。

まったく唐突に
南こうせつの歌う「神田川」を
思い出させられましたのは、
小さな石鹸 カタカタ鳴った♪
というフレーズがかぶさってきたからです。

「神田川」は
1970年代の若いカップルの物語で
「独身者」に、パートナーはいません。
でも、
どこか重なるところがあるのは
大原女という女性が登場し、
この女性をパートナーと擬することが可能だからです。

独身者とは、
詩人自身のことでしょう。

この詩が制作された昭和11年4月に
中原中也は結婚していましたが
詩人である自分を、
独身者(=どくしんもの)に見立てたのです。
独身者は、
詩人という存在のメタファーです。

では、第1連2、3行目

郊外と、市街を限る路の上には
大原女(おほはらめ)が一人歩いてゐた

とある、
郊外と、市街を限る路とは、
何を意味しているのでしょうか
大原女は、
文字通りの大原女と受け取ってよいのでしょうか
こ2行によって、
指し示されたメタファーはどんなことでしょうか

ここで読む人の想像や推理や創作によって
詩は無限の展開をみせるはずです。

3連は、
独身者が
昼下がりの銭湯から出てくると
郊外と市街の境界になっている道を
大原女が歩いている、のを見た

というこの詩の物語のリフレインですが
やはり、ここに何が込められているか
あれやこれや
考えたり、首をひねったり
合点したり、一人ほくそ笑んだり、

そうして
詩人が、二者択一を迫られて
どうしようにもなく崖っぷちに立っているような
切羽詰った感じがある……
という鑑賞に辿り着いたところで
この詩のエキスの部分は読み終えた
と、しておきましょう、
ひとまず。

中原中也の詩作品「独身者」と
南こうせつらかぐや姫が歌った
ヒット曲「神田川」(作詞は、喜多條忠)の詞の
類似性を言うつもりはありません。
ふと、思い出しただけで、
両者はまったく異なる世界を歌っています。

しかし、
銭湯というシチュエーションと
石鹸箱……と、聞いただけで
両者は、ひどく、近しい世界である、
とは多くの人が
うすうす感じているところなのではないでしょうか。

「独身者」という詩の
極度な近眼の彼とは、
来る日も来る日も
詩の勉強にいそしんだ詩人。

よそゆきの服を普段着にしている彼も、
中原中也その人である詩人。

「判屋奉公」の経験のある彼も、
苦労を人一倍してきた詩人。

そのような独身の男の物語で、
物語は、まだ、はじまっていないのですが
詩人は、これから、
どのような物語を演じていくべきかを
自ら問いかけているような詩です。

結婚のことを考えているのかもしれません
パートナーは大原女のようでありたい、
と願っているのかもしれません。
まったく違うことを考えているのかもしれません。

詩人が大原女に何を見立てたのか……
この詩の最大のポイントですが
断定できる何ものもありません。

京都に住んだことのある詩人の
なんらかの経験につながっていることは
間違いなさそうですが
なにがしか「女性」のメタファーではありそうです。

いま、大原女は
郊外と市街の境の道を歩いているのですが
銭湯のある市街のほうへ来るのか
詩人が郊外のほうへ向かったほうがよいのか

詩人の生活の拠点は
市街がよいのか
郊外がよいのか
あれやこれや
考えている

そこに
持っている石鹸箱が
カタカタと鳴り
秋風が吹いている

どっちのほうへ行くのかなあ
大原女は……
どっちのほうへ行けばいいのかなあ

彼=詩人=僕は……
どっちのほうへ行けばいいのかなあ

この二者択一は
詩人が取らねばならない
のっぴきならない選択で
崖っぷちに立っているような
切羽詰った感じがあるのですが
だれも答えてくれるものなぞ
あるわけはなく
カタカタと石鹸箱は鳴り
秋風が吹いているばかりです。


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