米 子

二十八歳のその処女(むすめ)は、
肺病やみで、腓(ひ)は細かった。
ポプラのように、人も通らぬ
歩道に沿(そ)って、立っていた。

処女(むすめ)の名前は、米子(よねこ)と云(い)った。
夏には、顔が、汚れてみえたが、
冬だの秋には、きれいであった。
――かぼそい声をしておった。

二十八歳のその処女(むすめ)は、
お嫁に行けば、その病気は
癒(なお)るかに思われた。と、そう思いながら
私はたびたび処女(むすめ)をみた……

しかし一度も、そうと口には出さなかった。
別に、云(い)い出しにくいからというのでもない
云って却(かえ)って、落胆させてはと思ったからでもない、
なぜかしら、云わずじまいであったのだ。

二十八歳のその処女(むすめ)は、
歩道に沿って立っていた、
雨あがりの午後、ポプラのように。
――かぼそい声をもう一度、聞いてみたいと思うのだ……

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ひとくちメモ

「永訣の秋」16篇には、
女性の出てくる詩が
いくつかあります。

「ゆきてかへらぬ――京都――」
「あばずれ女の亭主が歌つた」
「或る男の肖像」
「米子」の4作。

「米子」は、女性の名前yonekoヨネコで、
「よなご」ではありません。

28歳の女性は、
肺病を病んでいて
ふくらはぎは細かった
(※腓(ひ)は、「こむら」と訓読みし、
「ふくらはぎ」のこと。)
ポプラのように
舗道に立っていた。

ポプラという比喩が
病んだ女のひょろっとした
背の高い感じを表していて
中原中也独特です。

腓が細く、ととらえる
リアルな眼差しで、細部を表し、
全体を、ポプラと鷲づかみにする、
表現力に強さがあります。

よねこという名前だった。
夏には、顔が、汚れて見えたが
秋冬になると、すっきりきれいになった
かぼそい声だった。

結婚すれば、
病気など、治ってしまうさ、
と、彼女を見ると、私はいつも思っていたが、
そう言ったことはなかった。
なぜだか、言えなかった。

雨上がりの午後の舗道に立っていた
あの女性のかぼそい声を
もう一度、聞いてみたい、と
このごろ
しんみりと、そんなことを思います。

「あばずれ女の亭主が歌つた」の

佳い香水のかをりより、
病院の、あはい匂ひに慕ひよる。

と似たような感情が
ここでも、歌われています。

もう一度会いたい女性を歌い、
失われた過去、過ぎ去りし日に思いを馳せ、
そして、
さらば青春!と、
失われた青春を惜しむ気持ちも託されているような作品です。


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