後 記

茲(ここ)に収めたのは、「山羊の歌」以後に発表したものの過半数である。作ったのは、最も古いのでは大正十四年のもの、最も新しいのでは昭和十二年のものがある。序(つい)でだから云(い)うが、「山羊の歌」には大正十三年春の作から昭和五年春迄のものを収めた。

詩を作りさえすればそれで詩生活ということが出来れば、私の詩生活も既に二十三年を経た。もし詩を以て本職とする覚悟をした日からを詩生活と称すべきなら、十五年間の詩生活である。

長いといえば長い、短いといえば短いその年月の間に、私の感じたこと考えたことは尠(すくな)くない。今その概略を述べてみようかと、一寸(ちょっと)思ってみるだけでもゾッとする程だ。私は何にも、だから語ろうとは思わない。ただ私は、私の個性が詩に最も適することを、確実に確かめた日から詩を本職としたのであったことだけを、ともかくも云っておきたい。

私は今、此(こ)の詩集の原稿を纏(まと)め、友人小林秀雄に托し、東京十三年間の生活に別れて、郷里に引籠(ひきこも)るのである。別に新しい計画があるのでもないが、いよいよ詩生活に沈潜しようと思っている。

扨(さて)、此(こ)の後どうなることか……それを思えば茫洋(ぼうよう)とする。

さらば東京! おおわが青春!

〔一九三七・九・二三〕

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ひとくちメモ

さらば東京! おゝわが青春!

と、後記に記して、
いったんは、故郷に帰り、
「詩生活に沈潜しよう」とした
詩人の未来は
茫洋(ボーヨー)としたものではあっても
死を予感していたものではありませんでした。

そうであるにもかかわらず
詩人は、あっという間に、死んでしまいます。

「在りし日の歌」の「在りし日」とは
一般に、
死者の生前の写真を
「在りし日のAさん」などと
説明するときに使われる、
その「在りし日」です。

ですから
詩集のタイトルに接した人は
詩人は、
死を予感していた、
などという憶説を弄(もてあそ)ぶことにもなります。
これは、間違いです。

後記には
死の予感の気配もないことを
読み取ったほうがよいでしょう。

このことを銘記した上で、
詩集には
「亡き児文也の霊に捧ぐ」と献辞があり、
「在りし日」は、
「文也の在りし日」の意味が
込められていることを知らなければなりません。

これは、
文也の「在りし日」の意味が
込められていることではあれ、
詩人自らの死の意味が
込められていたものではないことを示しています。

死や死後や
幽霊や亡霊や死児や
骨や……は、
中原中也の詩世界の
主要なテーマではあります。

しかし
「倦怠のうちに死を夢む」と
「汚れつちまつた悲しみに……」で歌った「死」は
詩人の肉体の死と
イコールなのではありません。

と、このように論理的に、
話を進めていっても
捉えきれない謎が
中原中也の詩には散らばっています。

断定を急がずに
分からないものは分からないままに
詩句を頭に刻み
いつか、
謎が解ける時が来るのを待つ
という方法は
詩の読み方の王道ですから
分からないでいる時間と
上手につきあって行こうではありませんか。

それにしても

さらば東京! おゝわが青春!

には、
無理強いの元気よさはなく
悲痛な響きすらが感じられますが
どうでしょうか。

「もし詩を以て本職とする覚悟をした日からを詩生活と称すべきなら、十五年間の詩生活である。」

と、詩人自らが言う
「15年」を思ってみてください。
幾分オーバーな言い方かも知れませんが、
詩のことばかりを考えて15年というのは、
恐るべき、長い月日ではありませんか!

後記に記した日付の約1カ月後に、
詩人は死んでしまいます。


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