我が祈り

小林秀雄に

神よ、私は俗人(ぞくじん)の奸策(かんさく)ともない奸策が
いかに細き糸目(いとめ)もて編(あ)みなされるかを知っております。
神よ、しかしそれがよく編みなされていればいる程、
破れる時には却(かえっ)て速(すみや)かに乱離(らんり)することを知っております。

神よ、私は人の世の事象が
いかに微細(びさい)に織(お)られるかを心理的にも知っております。
しかし私はそれらのことを、
一も知らないかの如(ごと)く生きております。

私は此所(ここ)に立っております!………
私はもはや歌おうとも叫ぼうとも、
描こうとも説明しようとも致しません!

しかし、噫(ああ)! やがてお恵みが下ります時には、
やさしくうつくしい夜の歌と
櫂歌(かいうた)とをうたおうと思っております………

一九二九、一二、一二

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ひとくちメモ

「我が祈り」は
ヴェルレーヌ「ポーヴル・レリアン」の訳出と
「修羅街輓歌」
「暗い天候三つ」
「みちこ」
「嘘つきに」の4篇の詩篇とともに
「白痴群」第5号に発表されました。

詩篇末尾に
「一九二九、一二、一二」とあることから
1929年(昭和4年)12月12日の制作と確定している
小林秀雄への献呈詩です。

長谷川泰子が
中原中也から去って
小林秀雄と暮しはじめたのは
大正14年(1925年)11月――。

それから2年半後の昭和3年5月
小林秀雄は
長谷川泰子から逃げるようにして
奈良におよそ1年間暮し
再び東京に戻ってきました。
昭和4年(1929年)春のことです。

この上京で
小林秀雄と中原中也との交友関係は
復活したとみる見方が一般的ですが
大岡昇平は、

昭和4年4月には小林秀雄の「様々なる意匠」が改造の懸賞論文に当選し、5年から「文芸春秋」に文芸時評「アシルと亀の子」が好評で1年続いた。力で文壇を押しまくって行く人間が、我々の仲間から出て来たのである。「白痴群」なんて、ケチな名前で寄り合ってる必要はないのである。河上はやがて小林を通して、堀辰雄、井伏鱒二などを知り、「セザール・フランク」は昭和5年「文学」に載る。小林は東京へ帰って来ていた。しかし中原は小林を訪ねる手がかりがない。
(「朝の歌」中の「白痴群」)

と記していて
微妙に食い違っています。

中原中也が小林秀雄と再会するのは
さほど難しかったわけでもなさそうで
一方は「白痴群」の創刊
一方は文芸評論家デビューへのステップアップと
話題に事欠くことはなかったこともあり
昭和4年の春には実現しているようです。

歌人・前川佐美雄は
高橋新吉の案内で中原中也と初対面したとき
日本橋の酒場で
小林秀雄と河上徹太郎を紹介されていることを
明らかにしていますが
この日は昭和4年4月のある日です。
(角川新全集第1巻詩Ⅰ解題篇)

大岡は
文壇=メジャーに比べれば
「白痴群」などという同人誌なんて
名前からしてケチな寄り合いで
問題外といわんばかりに矮小化していますが
この時期は
「白痴群」解散のきっかけの一つでもあった
中原中也との喧嘩があった頃で
それが生々しくて
客観的なスタンスを保てていない書きっぷりです。

中原は小林を訪ねる手がかりがない。

とは「予断」というもののようで
手がかりは
いくらでもありましたから
さっそく
日本橋の酒場での酒席となったのであろうことが
想像できますし
この日が再会初日であったかどうかも
疑わしいものです。

「我が祈り」は
小林秀雄を文学上の師友として認める詩人が

歌はうともしない
叫ばうともしない
描(えが)かうともしない
説明しようともしない

そういうところ=此所(ここ)に立っているということ
つまりは
神の御前にあるということを誓うなかで
神の恵みがもしもあるものであれば
歌いたい――。

夜の歌と
櫂歌(かいうた)とを歌いたい
と告白している詩で
この詩自体を
小林秀雄に献呈しているものです。

感想は
さまざまなことを述べることができましょうが
詩人が
本当に歌いたいのは
夜の歌と
櫂歌(かいうた)であるということは
心して聞いておきたいことですし
ここに至って
そのように歌う詩人に
拍手を送りたい気持ちにもなります。


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