はるかぜ

ああ、家が建つ家が建つ。
僕の家ではないけれど。
空は曇(くも)ってはなぐもり、
風のすこしく荒い日に。

ああ、家が建つ家が建つ。
僕の家ではないけれど。
部屋にいるのは憂鬱(ゆううつ)で、
出掛けるあてもみつからぬ。

ああ、家が建つ家が建つ。
僕の家ではないけれど。
鉋(かんな)の音は春風に、
散って名残(なごり)はとめませぬ。

風吹く今日の春の日に、
ああ、家が建つ家が建つ。

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ひとくちメモ

「はるかぜ」は
「歴程」第3次創刊号に初出した作品。
昭和11年(1936年)10月1日付けの発行で
制作は同年3月と推定されているものです。

「歴程」の創刊が
3度も繰り返された事情について
主宰者の草野心平は

「歴程」の発端は一昨々年の夏で、それから六ヶ月目に創刊された。その一冊のまゝ永い事休刊して、第二号を――といふよりは再度の創刊を今年の三月にし、翌四月と続いて二冊出したが、再び種々の事情からしばらく休刊の止むなきに至り、此度は即ち第三回目の創刊である。

と同号(第3次創刊号)に記していますが
第3次「歴程」も
第2号(昭和11年11月1日発行)を出して休刊
第4次「歴程」は
昭和14年4月に刊行されるといったように
ジグザグの道をたどります。

裏表紙、いわゆる「表4」に

尾崎喜八
岡崎清一郎
河田誠一
金子光晴
菊岡久利
草野心平
宍戸儀一
高村光太郎
高橋新吉
田村泰次郎
中原中也
逸見猶吉
土方定一
菱山修三
藤原定
松永延造
宮沢賢治
山の口獏

の同人18名が列記されています。

第2次「歴程」の第3号の発行に合わせて
「歴程」編集の草野へ送付されたが
3号は発行されなかったため
再々創刊号である
第3次「歴程」に掲載されたものと推定され
制作も
第2次「歴程」第3号(未刊行)の発行日の2月前である
昭和11年3月とされているものです。

第2次「歴程」第2号(4月発行)には
「冬の明方」(「在りし日の歌」では「冬の明け方」)が発表され
引き続いて発表されるはずの作品が
「はるかぜ」でしたから
制作日を推定できるわけです。
(「新全集・第1巻詩・改題篇」より)

「はるかぜ」が作られたころ
詩人は
市谷・谷町に住んでいたはずですから
近辺に建築中の家が見えたのでしょうか――。

部屋にゐるのは憂鬱で、
出掛けるあてもみつからぬ。

とありますから
外出中に見かけたのではなく
部屋にいながらにして
目に入ってきた
家作りの風景なのでしょう。

俺も家がほしいな
などという小市民的欲望を感じさせることはないのですが
このころ
長男文也は可愛さ盛りで
妻孝子ともども
親子水入らずの時間を
旺盛な詩活動の合間に持てたことが想像できます。

「春、文也を連れて動物園に行く」と
年譜にあるのは
この年の春ですし
このことをやがて
文也の突然の死去により
「文也の一生」に記すのも
この春のことです。

詩人は
来るべき不幸を
一抹も感じることなく

鉋(かんな)の音は春風に、
散つて名残はとめませぬ。

と歌っていたのです。

傍らには
言葉を喋り始めた
幼子(おさなご)がいて
その子を甲斐甲斐しく世話する
孝子の姿があったかもしれません。

かすかに感じられるだけですが
このころの詩人に
短い幸福の
ドメスティックな時間がありました。


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