倦怠者の持つ意志

タタミの目
時計の音
一切が地に落ちた
だが圧力はありません

舌がアレました
ヘソを凝視(みつ)めます
一切(いっさい)がニガミを帯(お)びました
だが反作用はありません

此(こ)の時
夏の日の海が現われる!
思想と体が一緒に前進する
努力した意志ではないからです

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ひとくちメモ

倦怠(けんたい)は
この「倦怠者の持つ意志」と
前作「倦怠に握られた男」が作られてから
およそ6年後の1929年(昭和4年)末に制作された
「汚れつちまつた悲しみに……」で

倦怠(けだい)のうちに死を夢む

と歌われることになる
倦怠(けだい)です。
同じ倦怠です。

「ノート1924」の
「倦怠者の持つ意志」と
「倦怠に握られた男」で
初めて
詩人は
倦怠という言葉を使うのですが
この時から
ケンタイではなくケダイだったか
確かなところはわかりませんが

「汚れつちまつた悲しみに……」で
詩人自らルビをふり
倦怠をケダイと読ませているのは
多くの読者が
ケンタイと読んできた経緯があり
やむにやまれずに
ケダイと読ませたいと思ったからだとすれば
1924年の倦怠も
ケダイだったのであろう
と推測してもおかしくはないでしょう。

「汚れつちまつた悲しみに……」の倦怠(けだい)が
「死への倦怠」ならば
「ノート1924」の倦怠(けだい)は
暮らしの中の
すなわち
「生からの倦怠」であるほどの違いがありますが
この違いは
さほど大きな違いではありません。

「倦怠に握られた男」を書いた詩人は
その後すぐに
その男、倦怠者を
よりいっそうアップで捉えようとして
その男の意志について歌ったのです。

その意志とは……

タタミの目とか
時計の音とか
日々の暮らしの形の一つ一つが
すべて地上に落ちてしまって
無意味になってしまったけれど
特に問題はありません。

舌が荒れました
ヘソをじっくりと見ました
身体のどこもが不調で思わしくありませんが
特に支障はありません。

こんな状態の時に
夏の海が出現するのです!
思想と身体が一緒になって前進し
倦怠はこうして生じます。
努力して得たわけじゃないのです。

得体の知れない倦怠の出所を
詩人は
なんとか
自分に説明しようとしているかのような
詩です。



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