想像力の悲歌

恋を知らない
街上(がいじょう)の
笑い者なる爺(じい)やんは
赤ちゃけた
麦藁帽(むぎわらぼう)をアミダにかぶり
ハッハッハッ
「夢魔(むま)」てえことがあるものか

その日蝶々の落ちるのを
夕の風がみていました

思いのほかでありました
恋だけは――恋だけは

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ひとくちメモ

蝶々は
夕方になると
翅(はね)を休めに木蔭へ降り立ちます。

少年時代に
野原で遊んだ観察眼が
ダダ詩に生きています。

陽光の下で
軽快に飛び回る蝶の
思いのほかの翅休めが
恋の喩(たとえ)になったのです。

こんなこと
予想だにしなかった!
恋するなんて。

街の
お笑い者の爺さんは
赤茶けた
麦藁帽をアミダにかぶって
ハッハッハって
わかったように笑ってみせたがね。

夢魔なんてこと
あるのかいなってね。

この爺やん
キリスト教的無政府主義系統の詩人で、その頃「大空詩人」と称して、マンドリンを弾きながら、各地の盛り場を流して歩く一種の名物男であった。永井が弾き、泰子が踊るコンビを組んだこともあり、その保護者だった

と、後に
大岡昇平が記した(「角川旧全集解説・詩Ⅰ」)
永井叔のことらしく
詩人と泰子とのなれそめの情景が想像できます。

そして、この詩の蝶は
「一つのメルヘン」(「在りし日の歌」)の蝶を
思い出させます。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくつきりとした
影を落してゐるのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……

と、第3、4連に登場する蝶です。

二つの詩は
内容も情景もモチーフも
すべてが異なり
作られた時も隔たっていますが
蝶のイメージは
どこか似通っているものがあります。

それはなんだろう

どちらも
起承転結の転、
ある場面を次の場面へと転じるための
動機として「蝶」を登場させ
詩が動きはじめるきっかけになっているのです。

「一つのメルヘン」を作ったときに
遠い日に作った「想像力の悲歌」の「技」が
詩人の中によみがえったことを
だれも否定できるものではありません。

今しも一つの蝶がとまり、

やがてその蝶がみえなくなると、
の2行は
時間が動いた瞬間を示しますが

その日蝶々の落ちるのを
夕の風がみてゐました

も、時間が流れたことを指示しています。

その時に!
なにが起こったでしょうか――。

どちらの詩も
「結」の連となり
「想像力の悲歌」の「結」は
恋です。

詩人は
恋を
それほどに
歌いたかったのでしょう。

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