古代土器の印象

認識以前に書かれた詩――
沙漠(さばく)のただ中で
私は土人(どじん)に訊(たず)ねました
「クリストの降誕(こうたん)した前日までに
カラカネの
歌を歌って旅人が
何人ここを通りましたか」
土人は何にも答えないで
遠い沙丘(さきゅう)の上の
足跡をみていました

泣くも笑うも此(こ)の時ぞ
此の時ぞ
泣くも笑うも

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ひとくちメモ

「古代土器の印象」は
「ノート1924」の12番目にある詩。

詩人は終生
詩のありかにこだわったのですが
冒頭の「認識以前」とは
詩が生まれるところと同じに考えてもよく
詩人の念頭にたえずあり続けました。
テーマみたいなものです。

平たくいえば
「感じる」に近いのですが
現代人の感性ということではなく
古代人の
原始的な感性とか
都会化されない
野生の思考に近く
感じられたモノゴトが
言語になる以前の
言葉なき受容。

概念以前といってもよい――。

その
認識以前に書かれた詩、と
前もって
宣言された詩なのですから
言葉なき世界が
言葉にされているという
なんとも矛盾する世界のことが
歌われているということになります。

詩人は
ここに
土人とクリストを登場させ
その上
カラカネの歌を歌う旅人をも
登場させたのです。

カラカネとは
唐銅と書いて
唐(カラ)の銅(カネ)を意味するらしく
意訳すれば
カラカネの歌は
唐の国の歌つまり東洋の歌。

私が
砂漠で
原住民に尋ねたのです。
東洋の歌を歌う旅人が
キリストの降誕の日までに
ここを何人通りましたか、って。

原住民は
何も答えずに
砂丘についた足跡を
見ているだけでした。

私と原住民との間に
コミュニケーションは
成り立ったのでしょうか。

よくはわかりませんが
ここまでが
認識以前に書かれた詩というのです。

通じたのか
通じなかったのか
通じたと考えるのが
認識以前の立場というものでしょうか。

そうして
現実に戻される感じで
泣くも
笑うも
この時ぞって
言われちゃうと

強引に
認識以前の世界に目を開かされる気がしてきて
なんだか気がかりになります。

そのまんま
置かれるだけですが
気がかりです。

気がかりな詩です――。

いったい
何が「古代土器」なのか
認識以前に
それが遠ざかっていくような
それとも
近づいてくるような
変な感じになります。


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