退屈の中の肉親的恐怖

多産婦(たさんぷ)よ
炭倉(たんそう)の地ベタの隅に詰め込まれろ!
此(こ)の日白と黒との独楽(こま)廻(まわ)り廻る
世間と風の中から来た退屈と肉親的恐怖――女

制約に未(いま)だ顔向けざる頃の我
人に倣(なら)いて賽銭(さいせん)投げる筒(つつ)ッポオ
――とまれ!――(幻燈会夜……)
茶色の上に乳色の一閑張(いっかんばり)は地平をすべり
彼方(かなた)遠き空にて止る
その上より西に東に――南に北に、ホロッホロッ
落ち、舞い戻り畳の上に坐り
「彼女(アイツ)の祖母(ばあ)さんとカキモチ焼いてらあ」
「それから彼女(アイツ)はコーラスか」
「あら? 彼女(アイツ)は彼女(アイツ)のお父さんから望遠鏡手渡しされてる」
恋人の我より離れ
彼女達が肉親と語りいたれば我が心――
ケチの焦げるにおい……
この日白と黒との独楽廻り廻る

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ひとくちメモ

「草稿詩篇(1925―1928)」の
最先頭に置かれているのが
「退屈の中の肉親的恐怖」という詩ですが
これは
現存する中原中也が書いた書簡の中で
最も古いものとされている
大正14年(1925年)2月23日付けの
正岡忠三郎宛の書簡で
この中に書き付けられてあった詩篇です。

中原中也と長谷川泰子は
この書簡が書かれてすぐの
3月10日に上京しますから
京都時代の最後作品ということになっています。
18歳の時の詩です。

この詩が
泰子との別離以前に書かれたものであることは明白で
世の中を斜(しゃ)に見ていて
覇気(はき)があり
元気一杯の青年詩人は
ダダイストそのものです。

書簡には
タイトルの次の行に
「ダダイスト中原中也」と書かれてあり
これも異例のことです。
これは単なる署名というより
詩題の一部であり
詩の一部である
というような読みさえできるほどの強さがあります。

正岡忠三郎は
詩人・富永太郎の二高時代の友人で
冨倉徳次郎とともに
京都大学へ進んだのが縁で
京都に大正13年7月から11月まで滞在した富永に
紹介されて知り合った仲です。

中原中也に
富永太郎や正岡忠三郎を紹介したのは
冨倉徳次郎であったという順序が正確のようで
冨倉は
京都寺町今出川の中也・泰子の下宿をしばしば訪れ
中也と詩論を戦わせたりする過程で
自分の交友関係の中に
中也を招じ入れたということのようです。

中也は
ダダイズムを
高橋新吉の詩集「ダダイスト新吉の詩」を
読む大正12年(1923年)秋以前から知っていて
「破格」語法・詩法などについて
ある程度通じていましたが
新吉の詩集を古書店で手にしたのを機に
公然とダダイストを名乗るようになります。

正岡宛の書簡は
おそらく
正岡と知りあって間もない頃に書かれたもので
「ダダイスト中原中也」と
詩題「退屈の中の肉親的恐怖」の次の行に記したのは
この間話したとおり、おれはダダイストなんだ、と
正岡に印象付ける必要があったからでしょうか。

内容は
よく読むと「女」のことで
女とは、ただちに泰子のことではあるけれど
女全般に普遍化した女で
その女との暮らしは「退屈」で
すでに、
「倦怠」「アンニュイ」に通じるテーマを歌いはじめていることに
やや驚かされますが

彼女達が肉親と語りゐたれば我が心――

この行にいたって
この詩の向おうとしている「肉親」について
詩人の「我が心」は
どのように読んでいいものやらと
謎のような

ケチの焦げるにほひ……
この日白と黒との独楽廻り廻る

の2行をめぐって
グルグルグルと回転しはじめるのです。

白と黒の独楽
は、詩人の心の中で
回っている独楽(コマ)に二種あり
一つは純白の白
一つは漆黒の黒
二つがせめぎあって回転している様子とは
うっすらとイメージできそうですが

ケチの
焦げる
にほい

が、どのような「我が心」か
苦しみます。

詩人の中の嫉妬心を
見つめて
「けち臭い」が進んで
「焦げてしまっている状態」を
言っているのでしょうか。

ダダの詩に
「女」が歌われ
「肉親」が歌われ
「退屈」が歌われているのを知るだけでも
面白い詩と言えそうです。


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