或る心の一季節

――散文詩

最早(もはや)、あらゆるものが目を覚ました、黎明(れいめい)は来た。私の心の中に住む幾多のフェアリー達は、朝露の傍(そば)では草の葉っぱのすがすがしい線を描いた。

私は過去の夢を訝(いぶか)しげな眼で見返る………何故(ナニユエ)に夢であったかはまだ知らない。其処(そこ)に安座(あんざ)した大饒舌(だいじょうぜつ)で漸(ようや)く癒る程暑苦しい口腔(こうくう)を、又整頓を知らぬ口角を、樺色(かばいろ)の勝負部屋を、私は懐(なつか)しみを以(もっ)て心より胸にと汲(く)み出だす。だが次の瞬間に、私の心ははや、懐しみを棄てて慈(いつく)しみに変っている。これは如何(どう)したことだ?………けれども、私の心に今は残像に過ぎない、大饒舌で漸く癒る程暑苦しい口腔、整頓を知らぬ口角、樺色の勝負部屋……それ等の上にも、幸いあれ!幸いあれ!

併(しか)し此(こ)の願いは、卑屈(ひくつ)な生活の中では「ああ昇天は私に涙である」という、計(はか)らない、素気(すげ)なき呟(つぶや)きとなって出て来るのみだ。それは何故(なぜ)か?

私の過去の環境が、私に強請(きょうせい)した誤れる持物は、釈放さるべきアルコールの朝(アシタ)の海を昨日得ている。だが、それを得たる者の胸に訪れる筈(はず)の天使はまだ私の黄色の糜爛(びらん)の病床に来ては呉(く)れない。――(私は風車の上の空を見上げる)――私の唸(うめ)きは今や美(うる)わしく強き血漿(けっしょう)であるに、その最も親わしき友にも了解されずにいる。………

私はそれが苦しい。――「私は過去の夢を訝しげな眼で見返る………何故に夢であったかはまだ知らない。其処に安座した大饒舌で漸く癒る程暑苦しい口腔を、又整頓を知らぬ口角を、樺色の勝負部屋を、私は懐しみを以て心より胸にと汲み出す」――さればこそ私は恥辱を忘れることによっての自由を求めた。

友よ、それを徒(いたず)らな天真爛漫と見過(みあやま)るな。

だが、その自由の不快を、私は私の唯一つの仕事である散歩を、終日した後、やがてのこと己が机の前に帰って来、夜の一点を囲う生暖き部屋に、投げ出された自分の手足を見懸ける時に、泌々(しみじみ)知る。掛け置いた私の置時計の一秒々々の音に、茫然(ぼうぜん)耳をかしながら私は私の過去の要求の買い集めた書物の重なりに目を呉れる、又私の燈(ともしび)に向って瞼(まぶた)を見据える。

間もなく、疲労が軽く意識され始めるや、私は今日一日の巫戲(ふざ)けた自分の行蹟(ぎょうせき)の数々が、赤面と後悔を伴って私の心に蘇るのを感ずる。――まあ其処にある俺は、哄笑(こうしょう)と落胆との取留(とりとめ)なき混交(こんこう)の放射体ではなかったか!――だが併(しか)し、私のした私らしくない事も如何(いか)にか私の意図したことになってるのは不思議だ………「私の過去の環境が、私に強請した誤れる私の持物は、釈放さるべきアルコールの朝(アシタ)の海を昨日得ている。だが、それを得たる者の胸に訪れる筈の天使はまだ私の黄色の糜爛の病床に来ては呉れない。――(私は風車の上の空を見上げる)――私の唸きは今や美わしく強き血漿であるに、その最も親わしき友にも了解されずにいる」………そうだ、焦点の明確でないこと以外に、私は私に欠点を見出すことはもう出来ない。

私は友を訪れることを避けた。そして砂埃の立ち上がり巻き返る広場の縁をすぐって歩いた。
今日もそれをした。そして今もう夜中が来ている。終列車を当てに停車場の待合室にチョコンと坐っている自分自身である。此所から二里近く離れた私の住居である一室は、夜空の下に細い赤い口をして待っているように思える――

私は夜、眠いリノリュームの、停車場の待合室では、沸き返る一抱きの蒸気釜を要求した。

<スポンサーリンク>

ひとくちメモ

「或る心の一季節」は
上京後に作られた初の作品であり
中原中也全作品の中で初の散文詩でもあり
色々な意味で
背景を豊富にもつ詩です。

中でも
詩人が上京する意志を固めた理由の
最も大きかった一つに
富永太郎との交友があり
この詩そのものにも
富永太郎を通じて知った
フランス象徴詩の影響や
富永太郎その人の作品の影響が
随所に見られるのですから

富永太郎の物語を
ここで
少しでもひもといておかなくては
中原中也の物語を
前に進むことができません。

まず
中原中也の年譜の
1924年と1925年の項を見て
二人の詩人の物語のアウトラインを
つかんでおくことからはじめましょう。

大正13年(1924) 17歳

4月、立命館中学第4学年に進級。
この月、北区大将軍西町椿寺南裏に転居。立命館中学講師 冨倉徳次郎を知る。
同月、長谷川泰子と同棲を始める。「ノート1924」の使用を開始。
このころ、正岡忠三郎を知る。
7月、正岡の紹介で京都に来た詩人富永太郎を知る。「彼より仏国詩人等の存在学ぶ」(「詩的履歴書」)。
10月、このころ、富永太郎の下宿近くに転居。以後頻繁に往来。この年、ダダイズムの詩や、小説、戯曲の習作がある。
秋、「詩の宣言」を執筆。
11月、富永の村井康男宛書簡に「ダダイストとのDegoutに満ちたamitieに淫して四十日を徒費した」との言及があり、このころから二人の関係は悪くなっていく。
12月、富永太郎帰京。

大正14年(1925) 18歳

3月10日、長谷川泰子とともに上京。戸塚に下宿。早稲田高等学院、日本大学予科を受験する予定だったが、受験日に遅刻するなどして受けられなかった。その後帰省して、東京で予備校に通う許可を得る。
4月、富永太郎の紹介で小林秀雄を知る。
5月、小林の家の近く、高円寺に転居。
10月、「秋の愁嘆」を書く。
11月、泰子、小林のもとへ去る。中也は中野に転居。しかし、その後も中也・小林・泰子の「奇妙な三角関係」(小林秀雄)は続く。
この年の暮か翌年初めごろ、宮沢賢治の詩集「春と修羅」を購入、以後愛読書となる。

1924年7月に
京都で二人が知り合って以来
富永太郎は
中原中也の行動を突き動かす
発条(バネ)のような存在であった
ということが見えるでしょうか。

中原中也という詩人は
自身の詩作に有益な知人ができると
その知人の住む近くに住居を移し
毎日毎夜
その知人の住まいを襲っては
「骨までしゃぶるように」交友を深める
という人づきあいで知られていますが
この頃、
その相手は富永太郎でした。

10月には
富永太郎の下宿近くへ
泰子ともども転居します。
中也の下宿には
富永も足を運び
頻繁な往来が集中的に行われましたが
富永は、この間のことを振り返って
11月には
村井康男に宛てた書簡に
「ダダイストとのDegoutに満ちたamitie
に淫して四十日を徒費した」
と記すのです。

Degoutはフランス語で
不快とか嫌悪
Amitieは同じく
友情とか交友という意味です
富永は
中原中也とのわずか5か月のうちの
その40日間の激越な交友を
「Degoutに満ちたamitieに淫して四十日」と
京大の学友に報告せざるを得なかったのです。

中也のほうでは
後年
「ゆきてかへらぬ 京都」(「在りし日の歌」)の中で

名状しがたい何物かゞ、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴つてゐた。

などと歌ったり
「断片」(1936年11月中旬制作推定)では

十二年前の恰度(ちょうど)今夜
その男と火鉢を囲んで煙草を吸つてゐた
その煙草が今夜は私独りで吸つてゐるゴールデンバットで、
ゴールデンバットと私とは猶(なお)存続してるに
あの男だけゐないといふのだから不思議でたまらぬ

などと歌ったりしています。

富永太郎は
中原中也と知り合って約1年半後の
翌1925年11月に亡くなってしまうのですが
この時
中也は
追悼文「夭折した富永」を
「山繭」(1926年11月号)に寄せ

友人の目にも、俗人の目にも、ともに大人しい人といふ印象を与へて、富永は逝つた。そしてそれが、全てを語るやうだ。

などと記し
富永への不快感を表明することはありませんでした。

少年時代に
神童と呼ばれた中原中也です。
人一倍、勉強する人でしたし
富永太郎から学んだものの大きさは
後になっても
忘れることはなかったはずですから
多少は批判がましいことをも
追悼文の中に記しましたが
それも抑制の利いたものになっていますし
京都時代を振り返った「ゆきてかへらぬ」に
「希望は胸に高鳴つてゐた。」と歌ったのも
心底、そう感じていたからでありましょう。

「或る心の一季節」は
富永太郎の影響が
多々見られる作品ではありますが
しかし
これは中原中也の詩であることを
感覚を研ぎ澄まして
読まないことには
この詩を読んだことにはなりません。

そのような眼(まなざし)を
失わないで
冒頭行の

最早、あらゆるものが目を覚ました、黎明(れいめい)は来た。私の中に住む幾多のフエアリー達は、朝露の傍では草の葉つぱのすがすがしい線を描いた。

と、
「秋の悲歎」の冒頭行

私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去つた。道路のあらゆる直線が甦る。あれらのこんもりとした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない。
を読んでみれば
似ているようで
全く異なる詩であることは
誰が読んでも分ることです。
「或る心の一季節」の「私」は
中原中也でしかなく
ほかの誰でもありません。

あえて言えば
ダダイスト中原中也が
尻尾(しっぽ)を隠しきらずに
あちこちに登場しますし

だが、その自由の不快を、私は私の唯一つの仕事である散歩を、終日した後、やがてのこと己が机の前に帰つて来、夜の一点を囲ふ生暖き部屋に、投げ出された自分の手足を見懸ける時に、泌々(しみじみ)知る。掛け置いた私の置時計の一秒々々の音に、茫然耳をかしながら私は私の過去の要求の買ひ集めた書物の重なりに目を呉れる、又私の燈に向つて瞼を見据える。

当たり前のことですが
ここには
包み隠しもしない
中原中也という詩人がいるだけです。


<スポンサーリンク>