幼なかりし日

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在りし日よ、幼なかりし日よ!
春の日は、苜蓿(うまごやし)踏み
青空を、追いてゆきしにあらざるか?

いまははた、その日その草の、
何方(いずち)の里を急げるか、何方の里にそよげるか?
すずやかの、昔ならぬ音は呟(つぶや)き
電線は、心とともに空にゆきしにあらざるか?

町々は、あやに翳(かげ)りて、
厨房(ちゅうぼう)は、整いたりしにあらざるか?
過ぎし日は、あやにかしこく、
その心、疑惧(うたがい)のごとし。

さわれ人きょうもみるがごとくに、
子等の背はまろく
子等の足ははやし。
………人きょうも、きょうも見るごとくに。

(一九二八・一・二五)

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ひとくちメモ

「幼なかりし日」は
昭和3年(1928年)1月25日の日付をもつ作品。

後に
「在りし日の歌」のタイトルにとられる
「在りし日」という言葉が
冒頭にあり
続けて「幼かりし日」とあることから
この二つの言葉は
同格、同義に使われていることがわかります。
さらに「過ぎし日」も出てきますから
これも同義語として使われていることがわかります。

大岡昇平による
「在りし日」に関する考究が
大変に有名ですが
この詩「幼なかりし日」で
初めて「在りし日」が使われたことは
記憶にとどめておいてよいことかもしれません。

幼い時の思い出が
やがて
在りし日の歌へと進化し深化してゆく
晩年の詩を読むときに
必ずや
この詩を想起する機会が
訪れるに違いありませんから。

大岡昇平はこの詩を

 これはいつも中原について多少の留保をもって語った三好達治も、「空しき秋」「夕照」と共に賞めている作品である。望郷の情感を文語荘重体で述べたもので、朔太郎「郷土望景詩」と共通の声調を持っている。

と案内しています。
(「中原中也」所収「在りし日、幼なかりし日」)

二度とは戻ってこない
幼なかりし日を
詩人のみならず
人はみな
死者の位置から振り返るというような
生前という意味での「在りし日」を振り返るというような
いはば錯覚を
リアルに感じることがあるものなのでしょうか。

あの日
クローバーの咲く
野の道を踏みしめ
青空を追いかけるようにして遊んだのに
あの至福の時は
どこへ行ってしまったのか
というような喪失感覚は
人はみないつかどこかで経験するのが普通なことでしょうが

幼かりし日よ
在りし日よ
と、二度とはあり得ぬ過去を
望郷のまなざしで見返すとき
懐かしさが加わって
その至福の時を封印しようとする欲求(所有欲に近い?)は強まり
いきおい死者のまなざしになっているという
一種リスキーな地平へと
踏み込んでいくものなのでしょうか。

昭和3年1月
詩人20歳
帰省して
再び上京して
歌われた対象には
都会と田舎の風景が
混在しているかの感じがあります。

いま
あの草(クローバー)は
どこの野でそよいでいるか
電線は
涼やかに、昔とは違う音でつぶやいて
空に飛んで行ってしまったのではないか
……

再び
大岡昇平の発言に
耳を傾ければ

 詩篇は未定稿で措辞は整っていないが、「在りし日」と「過ぎし日」ははっきり同義に用いられている。しかもただの「失われし時」ではなく、まるで一つの生き物のように、どこかの「里」をいそぎ、そよいでいる。「その心、疑惧のごとし」の句に接して、われわれは中原の精神の健康に、多少の疑いを挟まざるを得ないが、とにかく下宿独居の苦悩の瞬間、喚起された過去が、少し歪んだ形を持つのは止むを得ない。
(同・上掲書)

との読みに出遭いますが
「その心、疑惧のごとし」の行にふれて
「精神の健康に、多少の疑いを挟まざるを得ない」と
コメントする断言口調には
どのように読んだかの説明が不足していて
今様にいう「上から目線」を
感じざるを得ません。●

「まるで一つの生き物のように、どこかの「里」をいそぎ、そよいでいる。」と
「幼なかりし日」を歌う詩の不思議さ
そのユニークさを読んだ評言の後では
蛇足でしょう。

詩人は
今日
子どもらが背を丸めて
俊敏に走り去る姿を
目にしています。


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