夏は青い空に……

夏は青い空に、白い雲を浮ばせ、
わが嘆(なげ)きをうたう。
わが知らぬ、とおきとおきとおき深みにて
青空は、白い雲を呼ぶ。

わが嘆きわが悲しみよ、こうべを昂(あ)げよ。
――記憶も、去るにあらずや……
湧(わ)き起る歓喜のためには
人の情けも、小さきものとみゆるにあらずや

ああ、神様、これがすべてでございます、
尽すなく尽さるるなく、
心のままにうたえる心こそ
これがすべてでございます!

空のもと林の中に、たゆけくも
仰(あお)ざまに眼(まなこ)をつむり、
白き雲、汝(な)が胸の上(へ)を流れもゆけば、
はてもなき平和の、汝がものとなるにあらずや

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ひとくちメモ

「夏は青い空に……」は
「身過ぎ」
「倦怠(倦怠の谷間に落つる)」とともに
昭和4年(1929年)6月の27日以前に
制作(推定)された作品です

この3篇は
筆記具、文字の大きさ、筆跡、インクが同じで
「夏は青い空に……」と
「倦怠(倦怠の谷間に落つる)」の2篇は
昭和4年6月27日付の河上徹太郎宛書簡に同封されてもいましたが
こちらは「ノート小年時」からの清書稿であると推定されています。

中原中也が河上に宛てたこの書簡は
「河上に呈する詩論」と題がつけられていましたが
この二人は
同人誌「白痴群」を牽引(けんいん)する両輪でしたから
互いに詩論や文学論を交換する場面が
多々あったに違いなく
この書簡もそのシーンの一つといえるでしょう。

この機会に
「河上に呈する詩論」全文を
読んでおきましょう――。

34 6月27日 河上徹太郎宛
 河上に呈する詩論

 幼時来、深く感じてゐたもの、――それを現はさうとしてあまりに散文的になるのを悲しむでゐたものが、今日、歌となつて実現する。
 元来、言葉は説明するためのものなのを、それをそのまゝうたふに用うるといふことは、非常に
難事であつて、その間の理論づけは可能でない。
 大抵の詩人は、物語にゆくか感覚に堕する。

 短歌が、ただ擦過するだけの謂はば哀感しか持たないのはそれを作す人に、ハアモニーがないからだ。彼は空間的、人事的である。短歌詩人は、せいぜい汎神論にまでしか行き得ない。人間のあの、最後の円転性、個にして全てなる無意識に持続する欣怡(きんい)の情が彼にはあり得ぬ。彼を、私は今、「自然詩人」と呼ぶ。

 真の「人間詩人」ベルレーヌの如きと、自然詩人の間には無限の段階がある。それを私は仮りに多くの詩人と呼ばう。
 「多くの詩人」が他の二種の詩人と異るのは、彼等にはディストリビッションが詩の中枢をなすといふことである。
 彼等は、認識能力或は意識によつて、己が受働する感興を翻訳する。この時「自然詩人」は感興の対象なる事象物象をセンチメンタルに、書き付ける。又此の時「人間詩人」は、――否、彼は常に概念を俟たざる自覚の裡に呼吸せる「彼自身」なのである。
    ――――――――――――――
 5年来、僕は恐怖のために一種の半意識家にされたる無意識家であつた。――暫く天を忘れてゐた、といふ気がする。然し今日古ぼけた軒廂(ひさし)が退く。
 どうかよく、僕の詩を観賞してみてくれたまへ。そこには穏やかな味と、やさしいリリシスムがあるだらう。そこに利害に汚されなかつた、自由を知つてる魂があるだらう。そして僕は云ふことが出来る。
 芸術とは、自然の模倣ではない、神の模倣である!(なんとなら、神は理論を持つてはしなかつたからである。而も猶動物ではなかつたからである。)
   1929年6月27日                      Glorieux 中也
(角川新全集第5巻「日記・書簡」より)
※漢数字を洋数字に改めたほか、一部に傍点があるのを省略しました。(編者)

このように詩論は書かれ
同じ封筒の中に
添えられた実作の一つが
「夏は青い空に……」でした


青い空
白い雲
という、
たった三つの自然を歌うことによって
わが嘆き=詩人の嘆きが
歌われているではありませんか!

青い空が白い雲を呼ぶだけで
わが嘆き=わが悲しみが
どのようにして
歌われてしまうのでしょうか!

これは
マジックです!
ここには
マジックが在ります!

ああ、神様、これがすべてでございます、 
 尽すなく尽さるるなく、 
心のまゝにうたへる心こそ 
 これがすべてでございます! 

心のまゝにうたへる心こそ 
と詩人のいう1行に
このマジックの秘密は在るでしょうか

どのようにすれば

青い空
白い雲
という三つの自然が
悲しみを歌うのでしょうか

「河上に呈する詩論」は
その秘密を
きっと明かしていることでしょう……


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