消えし希望

暗き空へと消えゆきぬ
わが若き日を燃えし希望は。

夏の夜の星の如(ごと)くは今もなお
遠きみ空に見え隠る、今もなお。

暗き空へと消えゆきぬ
わが若き日の夢は希望は。

今はた此処(ここ)に打伏(うちふ)して
獣の如くも、暗き思いす。

そが暗き思い何時(いつ)の日
晴れんとの知るよしなくて、

溺れたる夜(よる)の海より
空の月、望むが如し。

その浪はあまりに深く
その月は、あまりにきよく。

あわれわが、若き日を燃えし希望の
今ははや暗き空へと消え行きぬ。

(一九二九・七・一四)

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ひとくちメモ

「消えし希望」は
はじめ「ノート小年時」に清書され
それが推敲されて
「白痴群」第6号(昭和5年4月発行)に発表され
それがまた後に改題されて
「失せし希望」となり
「山羊の歌」に収録される作品です。

「ノート小年時」に清書された草稿が
第一次形態であり
「白痴群」に発表されたものが第二次形態であり
「失せし希望」が第三次形態です。
第一次形態は
昭和4年(1929年)7月14日の制作。

この詩は
昭和5年5月7日に行われた
「スルヤ」の第5回発表演奏会で
内海誓一郎作曲の歌曲として
「失せし希望」のタイトルで初演されました。

昭和4年後半のある日
詩人は内海にこの詩の原稿を渡して
作曲を依頼しましたが
それに応えて作られた曲です。

詩人は
この曲を気に入り
一部ながら
メロディーを覚え
酔ったときに
鼻歌で歌ったことが伝わっています。

「スルヤ」とは
河上徹太郎を通じて知った
諸井三郎らとの交流が
昭和2年11月にはじまりましたが
「白痴群」(創刊は昭和4年4月)にも
「スルヤ」のメンバーである
河上や内海誓一郎がいましたから
内海の作曲は
自然の成り行きといってもおかしくはない流れでした。

これより前の
昭和3年5月には
「スルヤ」の第2回発表会で
「臨終」と「朝の歌」が
諸井三郎の作曲で
長井維理(ながい・ういり)によって歌われていました。

大岡昇平によれば
「中原中期の傑作は大体昭和4年の6月から暮までに作られている」のですが
まさしくこの期間に
「消えし希望」は作られました。

暗き空へと消えゆきぬ 
わが若き日を燃えし希望は。

で、はじまる「青春の喪失感」は
ほかの誰でもない
中原中也であるからこそ歌になり
地中海的というか
瀬戸内海的というか
湿り気のない
からっとした悲しみのフレーズとして流布し
現在も受け止められている所以(ゆえん)です。


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