砂漠の渇き

私の胃袋は、金の叫びを揚げた。
水筒の中にはもはや、一滴の水もなかった。

私は砂漠の中にいた。
私の胃袋は金の叫びを揚げた。

しかし私は悲しみはしなかった。
私はどこかに猶(なお)オアシスを探そうと努力していた。

けれども其(そ)の時私の伴侶の、
途方に暮れた顏をみては私は悲しくなった。

「ああ、渇く。辛いな」と私は云(い)った。
「辛いな、辛いな」。

そしてはや、私はオアシスのことは忘れていた。
私は私の伴侶への心づかいで一杯だった。

日は光り、砂は焦げ、空はグルグル廻(まわ)った。
私は私の伴侶への心づかいで一杯だった。

私達二人は渇いていた。
しかし差当りどうすることも出来なかった。

私は努力しながら、
しかし、稀蹟(きせき)を信じていた。

そして私は伴侶のためには、
やがて冗談口を叩きはじめた。

私は莫迦(ばか)げきったことを、さも呑気(のんき)そうに語りながら、
偶には伴侶を笑わせることに成功した。

でもその都度、ともするとつのりゆく私の渇きは、
私の冗談口を裏切った。

伴侶は嶮(けわ)しい目付(めつき)で其(そ)の時私を見守った。
おまえの冗談口なぞ、あまり似つかわしくないよとばかり。

しかし我々は差当り渇きをどうしようもなかった。
私は祈る代りのように、冗談口を叩いていた。

日は光り、私は渇き、
地平はみえず。

わたくしの、理性はいまだ
狂いもえせず。

私の伴侶は私に嘆き、
伴侶の嘆きに私は嘆き、

日は光り、空気は蒸れて、
足重く、倒れんばかり。

私はかくて死にゆくのだが、
しかし伴侶をいたみながらだ。

「対立」の概念の、去らんことを!

<スポンサーリンク>

ひとくちメモ

「砂漠の渇き」は
(休みなされ)とは
しばらく間をおいて制作された、
と考えられているのは、
筆記具や筆跡の比較分析の結果ですが、
可能性としては
1931年(昭和6年)の制作もある、
と見なされて、
結局は
1930年秋から1931年9月中旬までの間の制作と
約1年の幅を想定されている作品です。

詩内容から判断すると
「三毛猫の主の歌へる」に近似するところから
1931年前半から9月中旬までの間の作と
推定する考えがあって、
この期間を含めて考えて
幅を大きくとったのです。

「三毛猫の主の歌へる」は
「青山二郎に」と
献辞のつけられた
(1931.6.1)の日付のある作品で、
この詩の中には
詩人と青山二郎らしき人物が登場し、
わたしが詩人で
おまえが三毛猫で
この二人の関係を
三毛猫の主、つまり詩人の側から
歌った詩になっていて、
「砂漠の渇き」も
その構造と似た作りになっています

こちらでは、
私の伴侶、
として出てくる人物が
青山二郎らしいのですが
らしいだけで
断定できることではありません

この頃付き合いのあった友人とか
詩の仲間とか
フランス語の生徒とか
伴侶はだれでもよいのですが
青山二郎であるとすれば
詩人は
1931年5月に彼と知り合うのですから
作品もそれ以後に作られた、
ということになってきます

特定のだれそれと
断定できなくとも詩を読むことはできますし
できなけれできないで
その時は想像をめぐらしながら読めばよいでしょう

詩は
いかにも「創作者の渇き」を
歌っているようで
砂漠を旅する
同好の二人が
共に苦しみ
励まし合うものの
渇きは癒されることのない状態がつづき

私の伴侶は私に嘆き、
伴侶の嘆きに私は嘆き、

仕舞いには
対立が生まれてしまうかもしれない
そんなピンチさえが予感されて……

しかし、
そんなことのないように!
と祈る詩人が登場して
その声が浮かび上がって
無理やりに
この詩を終わらせた感じで
終わります


<スポンサーリンク>