(風のたよりに、沖のこと 聞けば)

風のたよりに、沖のこと 聞けば
今夜は、可(か)なり漁(と)れそう、ゆっくり今頃夕飯食べてる。
そろそろ夜焚(よだき)の、灯ともす船もある
今は凪(なぎ)だが、夜中になれば少し荒れよう。

しらじらと夜のあけそめに、
漁船らは、沖を出発、
帰ってきた、港の朝は、
まぼろしの、帆柱だらけ
雨風に、しらんだ船側(ふなばた)、
干されたる大いな網よ。

せわしげな、女の声々、

ああ、これでは、
人生は今も聞こゆる潮騒(しおさい)のごと、
ねぼけづらなる潮騒のごと、
うらがなしく、あっけない。

しかすがに、みよ、猟師の筋骨、
彼等は今晩も沖に出てゆく。
そのために昼間は寝る。

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ひとくちメモ

「早大ノート」の、
1931年(昭和6年)制作
と推定される作品は、
(そのうすいくちびると)にはじまり、
(孤児の肌に唾吐きかけて)、
(風のたよりに、沖のこと 聞けば)と続き、
「秋の日曜」まで
計22篇が並んでいます。

(風のたよりに、沖のこと 聞けば)は、
漁師の世界を題材として、
人生を歌いますが、
ここでは、
漁師は猟師でもあります。

「山羊の歌」の
「深夜の思ひ」第3連にも、

波うつ毛の猟犬見えなく、
猟師は猫背を向ふに運ぶ。
森を控へた草地が
坂になる!

と、ダダっぽい用法で
猟師が出てきますし、

「心象」には第1節第3連に、

とほりかかつた小舟の中で
船頭がその女房に向つて何かを云つた。
――その言葉は聞きとれなかつた。

と、船乗りが登場する例があります。

詩人は、
猟師、漁師、船乗り……などの暮らしに
詩人の生き方の対比を見たり、
類似を感じたりして、
メタファーとか
シンボルとか、
独特で格別の意味を
投じているのかもしれません。

この詩も、
未完成ですから、
厳密な鑑賞は
おせっかいかもしれませんが

あゝ、これでは、
人生は今も聞こゆる潮騒(しおさい)のごと、
ねぼけづらなる潮騒のごと、
うらがなしく、あつけない。

と、

しかすがに、みよ、猟師の筋骨、
彼等は今晩も沖に出てゆく。
そのために昼間は寝る。

の、どちらに重心がかかるのか
ふと迷いますが、

人生が、
潮騒のように
うら悲しく、
呆気ないもの、
と、詩人が感じるのをよそに、

漁師(猟師)たちは
たくましい筋骨を誇らしげに
沖へと出てゆくのだ
そのために
昼間にはぐっすり眠るのだ、

と、ひとまずは読んで、
その上で、
単に、猟師賛美の詩に
とどまらないところを
どのように味わいますか、

その読みの要(かなめ)は、
最終行、

そのために昼間は寝る。

に、あるようです。

猟師もまた、
詩人もまた、
「夜」は戦場ですし、
「昼」は休息の時であることにおいて
同じようなものですから、

昼間寝る、
ということは、
非常識なことでも、
反社会的なことでも、
ぐうたらなことでも、
ありません。

「しかすがに」は
「しか・す・がに」で、
「然(しか)」という副詞、
「す」というサ変動詞の終止形、
「がに」という程度や状態を表す
接続助詞の集まりです。
「しかしながら」の意味。


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