(ポロリ、ポロリと死んでゆく)

俺の全身(ごたい)よ、雨に濡れ、
富士の裾野(すその)に倒れたれ
読人不詳

ポロリ、ポロリと死んでゆく。
みんな別れてしまうのだ。
呼んだって、帰らない。
なにしろ、此(こ)の世とあの世とだから叶(かな)わない。

今夜(いま)にして、僕はやっとこ覚(さと)るのだ、
白々しい自分であったと。
そしてもう、むやみやたらにやりきれぬ、
(あの世からでも、僕から奪えるものでもあったら奪ってくれ。

それにしてもが過ぐる日は、なんと浮わついていたことだ。
あますなきみじめな気持である時も
随分(ずいぶん)いい気でいたもんだ。
(おまえの訃報(ふほう)に遇(あ)うまでを、浮かれていたとはどうもはや。

風が吹く、
あの世も風は吹いてるか?
熱にほてったその頬(ほお)に、風をうけ、
正直無比な目で以(もっ)て
おまえは私に話したがっているのかも知れない……

——その夜、私は目を覚ます。
障子(しょうじ)は破れ、風は吹き、
まるでこれでは戸外(そと)に寝ているも同様だ。

それでも俺はかまわない。
それでも俺はかまわない。
どうなったってかまわない。
なんで文句を云(い)うものか……

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ひとくちメモ

満州事変のニュースに
中原中也は
どのようにして接したのでしょうか
ラジオでしょうか
新聞でしょうか……

(秋の夜に)
(支那といふのは、吊鐘の中に這入つてゐる蛇のやうなもの)
(われ等のヂェネレーションには仕事がない)の3作を書いて
詩人は、
明らかに
戦争へ向かう時代の空気に反応しましたが……。

反戦を叫ぶでもなく
戦争なんて関係ない、
と不貞腐(ふてくさ)れるのでもなく
これまで通り
詩を書いて生きていくための方策を探し求めて
真剣でした。
精一杯でした。

さしあたっては
フランスへ渡ることを計画し
前年1930年には
中央大学予科へ編入学
この年1931年4月には
東京外国語学校仏語専修科に入学するなど
フランス語の修得に力を注ぎました。

そんな矢先
弟・恰三の死に遭います。

このあたりを
大岡昇平の
簡潔にして要を得た解説は、

(略)恰三は、明治45年10月生れ、5歳年下の長男である。長男中也に医師になる意志も見込みもなく、次男亜郎は夭折していたので、中原病院を継ぐために医学を志した。幼時より剣道野球を好み、快活な性格であった。昭和5年4月、両親の期待に応えて日本医大予科に入学したが、恐らく受験勉強の過労の結果であろう、肺を悪くして帰郷する。急に病状が進んでこの年9月27日に死んだ。(中原中也全集解説「詩Ⅱ」)

と、記しています。

※この年9月27日、とある、この年は昭和6年のこと。また、恰三の死亡日は、後の研究で、9月26日とされるようになりました。(編者)

中原中也は、
世田谷の豪徳寺の酒場で深酒した日、
帰宅して弔電を読みます。

こうして
追悼の詩が
いくつか書かれましたが
「早大ノート」に書きとめられたのは
(ポロリ、ポロリと死んでゆく)

(疲れやつれた美しい顔よ)

死別の翌日

――の3作です。


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