三毛猫の主の歌える

青山二郎に

むかし、おまえは黒猫だった。
いまやおまえは三毛猫だ、
幾歳月の漂浪のために。
そして、わたしは、三毛猫の主(あるじ)だ。

わたしは、それを嘆(なげ)きはしまい、
わたしはそれを、怨(うら)みはしまい。
われら二人をめぐる不運は
われらを弱めることによって甦(よみがえ)った。

さは、さりながら、おまえ、遐日(むかし)の黒猫よ、
わたしはおまえの、単一を惜む!
わたしはおまえの、単一な地盤の上にて

生長すべかりしことを懐(おも)う!
その季節(とき)やいま失われて、
おまえは患(うれ)え、わたしはおまえの患えを患える。

(一九三一・六・一)

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ひとくちメモ

「三毛猫の主(あるじ)の歌へる
青山二郎に」などのように
献呈された詩が
知人に預けたり貸したりされていて
時間が経って発見されるというような
数奇な運命をたどった
草稿作品があります。

大岡昇平は
「思い出すことなど」(1979年)で
この「三毛猫の主(あるじ)の歌へる 青山二郎に」が
発見された経緯(いきさつ)などを
克明に披瀝している中に

「この長谷川泰子を思わせる詩を青山に献じていることに、伝記作者はふたたび陰惨な気持に導かれる(略)」

と書き、
三毛猫が泰子のことであることを知れば
この詩は
俄然、ファンのところに近づいてきます。

1931年(昭和6年)というこの年
中原中也24歳(4月29日が誕生日)。
長谷川泰子が小林秀雄の元へと去ったのは
1925年(大正14年)11月
中也18歳のことでした。

この年の年譜(角川ソフィア文庫)は

この年から翌7年まで詩作はほとんどなし。
2月、高田博厚渡仏。長谷川泰子とともに東京駅で見送る。
4月、東京外国語学校専修科仏語に入学。
5月、青山二郎を知る。
7月、千駄ヶ谷に転居。
9月、弟恰三死去、19歳。戒名は秋岸清涼居士。葬儀のため帰省。
10月、小林佐規子(長谷川泰子)「グレタ・ガルボに似た女性」の審査で一等に当選。
冬、高森文夫を知る。

――とわずかですが
冒頭の
「この年から翌7年まで詩作はほとんどなし。」
は、余計なことがわかります。

この年譜に記された
詩人の行動記録は、
ほとんどがこの年に作られた詩の
背景やテーマになりましたし、

このほかに
満州事変の勃発という
社会情勢をも詩人は歌いましたし、

最終行、
「冬、高森文夫を知る。」の1行にも、
詩人の詩作を豊かにする
ドラマが広がっていたことを
想像することはむずかしくありません。


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