死別の翌日

生きのこるものはずうずうしく、
死にゆくものはその清純さを漂(ただよ)わせ
物云いたげな瞳を床にさまよわすだけで、
親を離れ、兄弟を離れ、
最初から独りであったもののように死んでゆく。

さて、今日は良いお天気です。
街の片側は翳(かげ)り、片側は日射しをうけて、あったかい
けざやかにもわびしい秋の午前です。
空は昨日までの雨に拭(ぬぐ)われて、すがすがしく、
それは海の方まで続いていることが分ります。

その空をみながら、また街の中をみながら、
歩いてゆく私はもはや此(こ)の世のことを考えず、
さりとて死んでいったもののことも考えてはいないのです。
みたばかりの死に茫然(ぼうぜん)として、
卑怯(ひきょう)にも似た感情を抱いて私は歩いていたと告白せねばなりません。

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ひとくちメモ

「死別の翌日」は
「疲れやつれた美しい顔」とともに
「白痴群」の僚友・安原喜弘に送付された詩篇で
「早大ノート」の草稿が清書され
タイトルが付けられたものです。

恰三が死んだのは
昭和6年9月26日。

弟が死んだ頃
詩人は友人とカフェでビールを飲み
大声で流行歌を歌っていて
雨と風が強く吹いていましたが
下宿に戻って
訃報を受け取った
――ということが
昭和8年10月に書かれた小説「亡弟」に書かれています。

このカフェこそ
小田急線豪徳寺にあったもので
夜11時過ぎに
同じ小田急線に乗って千駄ヶ谷の下宿に帰って訃報を見たので
郷里へ帰ろうにも
翌朝の始発を待つほかにありませんでした。

自分が行くまで葬ってはならない、と
中原中也は電報を打ち
翌日、東京を発ちました。

「亡弟」には
帰省した「私」が
戸主として
葬儀、焼香の返礼などを取り仕切ったことが書かれていますが
「死別の翌日」は
弟・恰三の死後間もない
10月初旬までの間に書かれたのですから
「亡弟」より生々しい「情報」が盛られていることになります。

まさに、死別の翌日の感情が
「死別の翌日」には表明されているのですが
その感情とは
卑怯にも似た感情であり
それを責める感情でした。


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