青木三造

序歌の一

こころまこともあらざりき
不実というにもあらざりき
ゆらりゆらりとゆらゆれる
海のふかみの海草(うみくさ)の
おぼれおぼれて、溺れたる
ことをもしらでゆらゆれて

ゆうべとなれば夕凪(ゆうなぎ)の
かすかに青き空慕(した)い
ゆらりゆらりとゆれてある
海の真底の小暗きに
しおざいあわくとおにきき
おぼれおぼれてありといえ

前後もあらぬたゆたいは
それや哀しいうみ草の
なさけのなきにつゆあらじ
やさしさあふれゆらゆれて
あおにみどりに変化(へんげ)すは
海の真底の人知らぬ
涙をのみてあるとしれ

その二

冷たいコップを燃ゆる手に持ち
夏のゆうべはビールを飲もう
どうせ浮世はサイオウが馬
チャッチャつぎませコップにビール

明けても暮れても酒のことばかり
これじゃどうにもならねようなもんだが
すまねとおもう人様もあるが
チャッチャつぎませコップにビール

飲んだ、飲んだ飲んだ、とことんまで飲んだ
飲んで泡吹きゃ夜空も白い
白い夜空とは、またなんと愉快じゃないか
チャッチャつぎませコップにビール。

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ひとくちメモ

「青木三造」は、
「草稿詩篇(1931年―1932年)」の中の
1932年制作(推定)としては
1番目にある作品で
人名のタイトルがついています。

「青木三造」は、
中原中也が書いた
数少ない小説であり
未発表の作品である「青年青木三造」を
詩にしたもので
小説でいえば「序歌」です。

これは、
詩が、序歌の一、その二、と
二部仕立てでの「序歌」を形作っていて、
その本体を
小説「青年青木三造」と見立てたものだからです。

この小説および詩作品は、
角川の旧版「中原中也全集」編集過程で発見されたが
出版までに大岡昇平ら編集陣が
入手できなかったという事情のある
「幻の遺稿」だったもので、
ようやく入手できたのが
同全集校了後であったという経緯が
大岡昇平の
「ある遺稿が世に出るまで」(1971)や
「遺稿処理史」(同)などに詳しく書かれています。

中也没後40年近くして
遺稿のありかが判明した、
数奇な運命の作品、
ということになります。

「青年青木三造」のモデルは、
1930年(昭和5年)に解散した
「白痴群」の同人、安原喜弘を
モデルにしたものと考えられていて、
したがって、
詩「青木三造」のモデルも
安原喜弘と推測されています。

第一詩集「山羊の歌」は、

昭和7年4―5月は、(略)「山羊の歌」が編集され、「憔悴」「いのちの声」など調子の高い作品が書かれた年である。予約募集が成功しなかったことも既に書いた。9月、母親から三百円貰って、本文のみ印刷したが、製本の費用なく、安原喜弘の家に預ける。同月、大森区馬込町北千束621に移転した。(「中原中也全集」解説・詩Ⅱ、1967)

と、大岡昇平が記す状態でした。

ほかのところでは、

詩集の印刷が進まないにつれ、中原の神経は混乱し始める。友人たちが詩集の出版を妨害しているというような被害妄想も生じたに違いない。「家も木も、瞬く星も隣人も、街角の警官も親しい友人も、今すべてが彼に向い害意を以て囁き始めたのである」と安原は書く。(「在りし日の歌」1966)

と記しますが、
ここに出てくる安原喜弘こそが
青木三造のモデルなのです。

詩人が、
友人知人らの離反を感じているときに
安原喜弘は近くに居続け
「山羊の歌」の「紙型」を預かった、
ということもわかっていますが、
このような状態の
どのような時に
「青木三造」は
書かれたのでしょうか――。

詩の冒頭は、
こころまこともあらざりき
と、詩人をサポートした親友に対しては
冷ややか過ぎる詩句ではじめられますが……

いや、不実ということでもなかったよ
ゆらりゆらりゆれていたさ
海の深みに生える海草のように
おぼれおぼれているからさ、
溺れていること自体を知らないような

……

前後もわからないたゆたいの姿は
それは悲しい海草の
情けのこれっぽっちもないということじゃないのさ
優しさがあふれてゆらりゆらり揺れて
青に緑に変化するのは
海の底で人の知らない
涙を飲んでいるからだということがわかるというものさ

その二は、
現代口語調に転調して、
戦い暮れて後
夜となって繰り出す
酒場でのビール三昧(ざんまい)の様子
チヤチヤつぎませコップにビール
一杯一杯又一杯の様子です

どうせ浮世はサイアウが馬、
の気分で、
不運不幸にくよくよするな
人間(じんかん)万事塞翁が馬、
ですよ
と、毎日毎夜
飲んで流したこの世の憂さでしたが……

リフレーンが
利いていて
底に在る悲しみが
乗り移ってくるようでもあります。



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