(蛙等が、どんなに鳴こうと)

蛙等が、どんなに鳴こうと
月が、どんなに空の遊泳術に秀でていようと、
僕はそれらを忘れたいものと思っている
もっと営々と、営々といとなみたいいとなみが
もっとどこかにあるというような気がしている。

月が、どんなに空の遊泳術に秀でていようと、
蛙等がどんなに鳴こうと、
僕は営々と、もっと営々と働きたいと思っている。
それが何の仕事か、どうしてみつけたものか、
僕はいっこうに知らないでいる

僕は蛙を聴き
月を見、月の前を過ぎる雲を見て、
僕は立っている、何時(いつ)までも立っている。
そして自分にも、何時(いつ)かは仕事が、
甲斐のある仕事があるだろうというような気持がしている。


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ひとくちメモ

(蛙等が、どんなに鳴かうと)も
(蛙等は月を見ない)に続いて
蛙を歌いますから
「蛙声(郊外では)」にはじまる蛙の歌の3番手の詩になります。
制作も昭和8年(1933年)5―8月の推定。

前作(蛙等は月を見ない)は
4行3連ですが
(蛙等が、どんなに鳴かうと)は
5行3連の詩ですから
新たに独立した詩が作られたということになります。

前作で
詩人はいったいどこにいるのだろうかとの
疑問が湧きましたが
その答えのヒントになるかのように

第3連の

僕はどちらかといふと蛙であるか
どちらかといへば月であるか
沼をにらむ僕こそ狂人

という、抹消された詩句を読みましたが
この詩句を引き受けるように
(蛙等が、どんなに鳴かうと)で
詩人は
蛙も月も忘れようと述べ
もっと営々としたいとなみが
どこかにあるような気がすると
蛙でも月でもないポジションを
歌い出すのです。

しかし
営々と働きたい仕事が
どんな仕事であるのか
どのようにすれば見つかるのか
いっこうに分かりません。

蛙の尽きるともない合唱を聴き
月を眺め
月の前を通りすぎてゆく雲を眺めて
僕はいつまでも立っているのです。

いつかは営々と働くことのできる
甲斐のある仕事があるだろうという
あいまいな気持ちを抱えたまま……。

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