狂気の手紙

袖の振合い他生(たしょう)の縁
僕事(ぼくごと)、気違いには御座候(ござそうら)えども
格別害も致し申さず候間
切角(せっかく)御一興とは思召(おぼしめ)され候て
何卒(なにとぞ)気の違った所なぞ
御高覧の程伏而懇願仕候(ふしてこんがんつかまつりそうろう)

陳述此度(のぶればこたび)は気がフーッと致し
キンポーゲとこそ相成候(あいなりそうろう)
野辺(のべ)の草穂と春の空
何仔細(しさい)あるわけにも無之(これなく)候処
タンポポや、煙の族(やから)とは相成候間
一筆御知らせ申上候

猶(なお)、また近日日蔭など見申し候節は
早速参上、羅宇(ラウ)換えや紙芝居のことなぞ
詳しく御話し申し上候
お葱(ねぎ)や塩のことにても相当お話し申上候
否、地球のことにてもメリーゴーランドのことにても
お鉢(はち)のことにても火箸(ひばし)のことにても何にても御話申上可候(おはなしもうしあぐべくそうろう)匆々(そうそう)

(一九三四・四・二二)


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ひとくちメモ



「狂気の手紙」は
この詩だけに
単独で向き合えば
なんだか
深刻な狂気の世界に導かれますが
同じ1934年4月22日に制作された
「昏睡」
「夜明け」
「朝(雀の声が鳴きました)」の3篇と
4篇の作品を並べて読むと
それぞれの作品が
明確な意識の元に
コントロールされ
詩=表現の意志に貫かれていることが
あらためて
理解できます。

それぞれの詩が
相対化されるわけですが
「狂気の手紙」は
よく読むと
論理的ですらあることがわかります。

それは
考えてみれば
当たり前のことなのですが

詩は
多かれ少なかれ
言葉で作る建造物のようなものでもありますから
「論理」がなくては
建ってもいられませんから
建っているためには
「論理」を構築しなければなりませんし

ぎすぎすした「論理」を
あばら骨が見えるようには
見せたくないのであれば
「論理」を見せない詩法を、
実はこれも「論理」の一つですが
編み出さなければなりませんから

どっちを取るにしても
「論理」に基づきますし
どちらも取るという詩法もあるかもしれませんが
どちらも取らないという詩法を編み出すには
新たな「論理」が要るに違いありませんから
ここでまた「論理」を求めることになります。

こんなことを
くどくどくどくど
書いているのも
お葱や塩や
キンポーゲや
タンポポや煙の族や
メリーゴーランドや……

これらの詩のパーツ
詩を形づくっている一つひとつの言葉が
ちっとも
論理的ではなく
その場その場の思いつきで
とりとめもなく
非論理的で感覚的に
使われているようでありながら
詩そのものが論理的である
とはどういうことかと
「狂気の手紙」のパーツを追いかけているうちに
こちらが論理的な姿勢になっていることに
気づかされるからです。

キンポーゲといえば
金鳳花と書き
「アルカロイドを含み有毒植物が多い」(ウィキペディア)と記される
キンポウゲ科の植物のことで
仲間に
トリカブト、
オダマキ、
フクジュソウ、
クリスマスローズ
イチリンソウ、
アネモネ
レンゲショウマ
……
とあるのを見れば
ピンと来る人も多いに違いない
一連のグループの花であり
キンポウゲは
「科」の名になっているほど
このグループの代表なのです。

此度(たび)は気がフーッと致し
キンポーゲとこそ相成候(あいなりそうろう)

に、詩人が込めた意味は明瞭で
気持ちがフーッとなって
キンポウゲでも食べたみたいに
おかしな気分になっちゃいまして

ま、野原の香り草に春の空の気分てなもんで
なんの理由があるわけではありません
タンポポや、煙のヤカラと同じことになっちゃっただけのことで
そこんところを
一筆書いてお知らせしておこうと思いましただけで。

タンポポは
根を煎じて、コーヒーのようにして飲んだりもしますし
野生するハーブの一つでもありますし
その流れで
煙の族とは
煙草のように煙を吸引すると
フラフラっとすることが知られている
薬草や大麻の類かもしれませんし
そうでなくとも
煙草そのものと考えてもよいでしょう
最終連には
羅宇(ラウ)換へのことが出てきますし

羅宇(ラウ)換へ、とは
キセル(煙管)の
きざみタバコを詰める火皿と吸い口とをつなぐ
竹で作られた部分のことで
キセルは使うたびに
ヤニで汚れるので
しょっちゅう手入れが必要で
火皿や吸い口の部分は
布切れなどで掃除すればよいのですが
羅宇(ラウ)の部分は
時々、取り替えなければならないのです

この、
羅宇(ラウ)換へや紙芝居のことなぞ
というのは、
日常生活上のこまごまとした
趣味趣向・たしなみ・好物・遊びなどの
一部始終のことで

お葱や塩のこと
地球のこと、メリーゴーランドのこと
お鉢のこと、火箸のこと
……も

日々の暮らしの食べ物のことから
物見遊山から地球のことまで
なんでもかんでも
一切合財を
お話してさしあげましょう

ということを
表現しようとしているだけで
裏返せば
いろいろと
話したいことが溜まっちゃったから
会ってぜひとも話したい
と訴えている詩なのかもしれません

早速参上、羅宇(ラウ)換へや紙芝居のことなぞ
詳しく御話し申上候

が、会って話したい、
と言っていることは明白ですね

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