2 天使と子供

ながくは待たれ、すみやかに、忘れ去られる新年の
子供等喜ぶ元日の日も、茲に終りを告げていた!
熟睡(うまい)の床(とこ)に埋もれて、子供は眠る
羽毛(はね)しつらえし揺籠(ゆりかご)に
音の出るそのお舐子(しゃぶり)は置き去られ、
子供はそれを幸福な夢の裡にて思い出す
その母の年玉貰ったあとからは、天国の小父さん達からまた貰う。
笑ましげの脣(くち)そと開けて、唇を半ば動かし
神様を呼ぶ心持。枕許には天使立ち、
子供の上に身をかしげ、無辜な心の呟きに耳を傾け、
ほがらかなそれの額の喜びや
その魂の喜びや。南の風のまだ触れぬ
此の花を褒め讃えたのだ。

《此の子は私にそっくりだ、
空へ一緒に行かないか! その天上の王国に
おまえが夢に見たというその宮殿はあるのだよ、
おまえはほんとに立派だね! 地球住(ずま)いは沢山だ!
地球では、真(しん)の勝利はないのだし、まことの幸(さち)を崇めない。
花の薫りもなおにがく、騒がしい人の心は
哀れなる喜びをしか知りはせぬ。
曇りなき怡びはなく、
不慥かな笑いのうちに涙は光る。
おまえの純な額とて、浮世の風には萎むだろう、
憂き苦しみは蒼い眼を、涙で以て濡らすだろう、
おまえの顔の薔薇色は、死の影が来て逐うだろう。
いやいやおまえを伴れだって、私は空の国へ行こう、
すればおまえのその声は天の御国(みくに)の住民の佳い音楽にまさるだろう。
おまえは浮世の人々とその騒擾(どよもし)を避けるがよい。
おまえを此の世に繋ぐ糸、今こそ神は断ち給う。
ただただおまえの母さんが、喪の悲しみをしないよう!
その揺籃を見るようにおまえの柩も見るように!
流る涙を打払い、葬儀の時にもほがらかに
手に一杯の百合の花、捧げてくれればよいと思う
げに汚れなき人の子の、最期の日こそは飾らるべきだ!》

いちはやく天使は翼を薔薇色の、子供の脣に近づけて、
ためらいもせず空色の翼に載せて
魂を、摘まれた子供の魂を、至上の国へと運び去る
ゆるやかなその羽搏きよ……揺籃に、残れるははや五体のみ、なお美しさ漂えど
息ずくけはいさらになく、生命(いのち)絶えたる亡骸(なきがら)よ。
そは死せり!……さわれ接唇(くちづけ)脣の上(へ)に、今も薫れり、
笑いこそ今はやみたれ、母の名はなお脣の辺(へ)に波立てる、
臨終(いまわ)の時にもお年玉、思い出したりしていたのだ。
なごやかな眠りにその眼は閉じられて
なんといおうか死の誉れ?
いと清冽な輝きが、額のまわりにまつわった。
地上の子とは思われぬ、天上の子とおもわれた。
如何なる涙をその上に母はそそいだことだろう!
親しい我が子の奥津城に、流す涙ははてもない!
さわれ夜闌(た)けて眠る時、
薔薇色の、天の御国(みくに)の閾(しきみ)から
小さな天使は顕れて、
母(かあ)さんと、しずかに呼んで喜んだ!……
母も亦微笑(ほほえ)みかえせば……小天使、やがて空へと辷り出で、
雪の翼で舞いながら、母のそばまでやって来て
その脣(くち)に、天使の脣(くち)をつけました……

千八百六十九年九月一日
ランボー・アルチュール
シャルルヴィルにて、千八百五十四年十月二十日生


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ひとくちメモ

「ラシイヌ、ふふんだ、ヴィクトル・ユウゴオ……堪らない」。
――と、小林秀雄が案内したランボーの
駄々っ子振りの真偽のほどにここでこだわりませんが
ランボーが若き日に
ビクトル・ユーゴーに影響を受けたこと示す事実があります。
それが
ランボー作のラテン語詩「天使と子供」です。

ランボーは
「孤児等のお年玉」を書く数カ月前の
シャルルヴィル高等中学校在学中(14歳から16歳)に
多くのラテン語詩を制作したのですが
ほとんどが散逸してしまったもののうち幾つかが残り
「高等中学校時代の韻文詩」としてまとめられ
1932年にメルキュール・ド・フランス社から発行されました。

この本は主に
ラテン語詩に対してフランス語訳を付したもので構成されていて
中原中也は
ランボーが書いたラテン語詩の
フランス語訳の部分を翻訳しました。

昭和8年12月に三笠書房から刊行された
「ランボオ詩集《学校時代の詩》」がそれで
5作品が収録されています。
(角川新全集・解題篇)

「ランボオ詩集《学校時代の詩》」の中の
「天使と子供」という詩は
やがて書かれる「孤児等のお年玉」の予告篇のような作品で
死ぬ間際にも
お年玉をもらった楽しげな元日の思い出を
夢にみて眠る子どもの枕元に
天使が現れて天上の王国へ連れ去る、という内容を歌っています。

小林秀雄が
「人生斫断家アルチュル・ランボオ」の中で案内する
「地獄の季節」を書く詩人とは
想像もできない少年詩人が
ここにいます。

ひとくちメモ その2

「天使と子供」を
現代表記+意訳して読んでおきます。
原作の詩を現代表記化するだけにとどめようとしながら
適宜、改行を入れたり
時には、ボキャブラリーを捕捉したりもします。
ざーっと目を通してみるのです。

 ◇

長く待たれ、速やかに、忘れさられる新年の
子どもらが喜ぶ元日の日も、ここに終わりを告げていた!

熟睡したベッドに埋もれて、子どもは眠る
羽毛をセットしたゆりかごに
音が出るおしゃぶりは置き忘れられ、
子どもはそれを幸福な夢の中で思い出す

その母のお年玉をもらった後で、天国のおじさんたちからまたもらう。
嬉しそうに口をそっと開けて、唇を半ば動かして
神様を呼ぶ心持。枕元には天使が立ち、
子どもの上に体を倒して、罪のない心の呟きに耳を傾け、
ほがらかなその額の喜びや
その魂の喜びや。南の風がまだ当たっていない
この花を褒めたたえたのだ。

(この子は私にそっくりだ、
空へ一緒に行かないか! その天上の王国に
お前が夢に見たというその宮殿はあるんだよ、
お前はほんとに立派だね! 地球住まいは沢山だ!
地球では、真の勝利なんてないのだし、真の幸福を大事にしない。

花の香りもいっそう苦く、騒がしい人の心は
哀れな喜びしか知りはしない。
曇りのない歓びはなく、
不確かな笑いの中に涙は光る。

お前の純粋な額だって、浮世の風には縮むだろう、
憂鬱な苦しみは青い目を、涙で濡らすだろう、
お前の顔のバラ色は、死の影が来て追うだろう。

いやいやお前を連れ立って、私は空の国へ行こう、
そうすればお前のその声は、天の御国の住民の佳い音楽よりも美しいだろう。
お前は浮世の人々との騒ぎを避けるとよい。
お前をこの世につなぐ糸を、今こそ神はお断ちになる。

ただただお前の母さんが、喪の悲しみをしないよう!
そのゆりかごを見るように、お前の棺も見るように!
流れる涙をうち払い、葬式の時にもほがらかに
手にいっぱいの百合の花、捧げてくれればよいと思う
本当に汚れのない人の子の、最期の日こそは飾ってあげてほしいもの!)

いちはやくも天使は翼をバラ色の、子どもの唇に近づけて、
ためらいなく空色の翼に乗せて
魂を、摘まれた子どもの魂を、至上の国へと運び去る
ゆるやかなその羽ばたきよ……ゆりかごに、残るはもう五体だけ、
みな美しさが漂っているけれど
呼吸する気配はいっこうになく、命のなくなった亡骸よ、
それは死んだ! ……ところがキスした唇の上に、今も香っている、
笑い声こそ今は止んで、母の名はなお口のあたりに波立っている、
死に臨んでもお年玉を思い出していたのだ。

なごやかな眠りにその目は閉じられて
なんと言おうか、死の誉れとでも?
とても清冽な輝きが、額の回りにまつわっている。
地上の子とは思われない、天上の子と思われた。

どんな涙をその上に母は注いだことだろう!
親しいわが子の墓に、流す涙は終わりがない!

ところで夜が更けて眠る時、
バラ色の、天の御国の領域から
小さな天使が現れて、
母さん、と静かに呼んで喜んだ!

母もまた微笑み返せば……その小さな天使は、やがて空へとすべり出て、
雪の翼で舞いながら、母のそばまでやって来て
その唇に、天使の唇をつけました……。

1869年9月1日
アルチュール・ランボー
シャルルビルで、1854年10月20日生まれ

ひとくちメモ その3

中原中也訳の「天使と子供」は
ラテン語詩のフランス語訳詩から
日本語に訳した「重訳」です。

重訳であることの限界を
想像することができますが
ここでは研究を目指しませんから
そのことには深入りしないで
あくまでも
中原中也が訳した詩
中原中也が日本語に訳したランボーの詩を追いかけます。

すると
「天使と子供」が
リズムによって
音数律によって
整然と作られているのが見えてきます。

ながくは待たれ、すみやかに、忘れ去られる新年の

この第1行を
声に出して読んでみると分かるのですが

●●●●●●● ●●●●● ●●●●●●● ●●●●●
ながくはまたれ  すみやかに  わすれさられる しんねんの
7―5―7―5

と、きれいな七五になっています。

第2行以下も――

子供等喜ぶ元日の日も、茲に終りを告げてゐた!
●●●●●●●● ●●●●●●● ●●●●●●● ●●●●●
8―7―7―5

熟睡(うまい)の床(とこ)に埋もれて、子供は眠る
●●●●●●● ●●●●● ●●●●●●●
7―5―7

羽毛(はね)しつらへし揺籠(ゆりかご)に
●●●●●●● ●●●●●
7―5

音の出るそのお舐子(しやぶり)は置き去られ、
●●●●● ●●●●●●● ●●●●●
5―7―5

子供はそれを幸福な夢の裡にて思ひ出す
●●●●●●● ●●●●● ●●●●●●● ●●●●●
7―5―7―5

その母の年玉貰つたあとからは、天国の小父さん達からまた貰ふ。
●●●●● ●●●●●●●● ●●●●● ●●●●● ●●●●●●●● ●●●●●
5―8―5―5―8―5

笑ましげの脣(くち)そと開けて、唇を半ば動かし
●●●●●●● ●●●●● ●●●●● ●●●●●●●
7―5―5―7

神様を呼ぶ心持。枕許には天使立ち、
●●●●● ●●●●●●● ●●●●●●● ●●●●●
5―7―7―5

子供の上に身をかしげ、無辜な心の呟きに耳を傾け、
●●●●●●● ●●●●● ●●●●●●● ●●●●● ●●●●●●●
7―5―7―5―7

ほがらかなそれの額の喜びや
●●●●● ●●●●●●● ●●●●●
5―7―5

その魂の喜びや。南の風のまだ触れぬ
●●●●●●● ●●●●● ●●●●●●● ●●●●●
7―5―7―5

此の花を褒め讃へたのだ。
●●●●● ●●●●●●●●
5―8

――と、「字余り」もわずかです。
「字余り」がなくしては
整然としすぎて「変」と思えるほど
七五のリズムに貫かれているのです。

2節目も終節も
そうです。

破調といえるほどの
揺れもなく
この詩が七五調でできているという
理屈を意識させることもなく
この「天使と子供」は訳されています。

ランボーを
リズムの詩人が
とらえようとしている――
そんなことを言っても
おかしくはない翻訳です。


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