坐った奴等

肉瘤(こぶ)で黒くて痘瘡(あばた)あり、緑(あお)い指環を嵌めたよなその眼(まなこ)、
すくんだ指は腰骨のあたりにしょんぼりちぢかんで、
古壁に、漲る瘡蓋(かさぶた)模様のように、前頭部には、
ぼんやりとした、気六ヶ敷さを貼り付けて。

恐ろしく夢中な恋のその時に、彼等は可笑しな体躯(からだ)をば、
彼等の椅子の、黒い大きい骨組に接木(つぎき)したのでありました。
枉がった木杭さながらの彼等の足は、夜(よる)となく
昼となく組み合わされてはおりまする!

これら老爺(じじい)は何時もかも、椅子に腰掛け編物し、
強い日射しがチクチクと皮膚を刺すのを感じます、
そんな時、雪が硝子にしぼむよな、彼等のお眼(めめ)は
蟇(ひきがえる)の、いたわし顫動(ふるえ)にふるいます。

さてその椅子は、彼等に甚だ親切で、褐(かち)に燻(いぶ)され、
詰藁は、彼等のお尻の形(かた)なりになっているのでございます。
甞て照らせし日輪は、甞ての日、その尖に穀粒さやぎし詰藁の
中にくるまり今も猶、燃(とも)っているのでございます。

さて奴等、膝を立て、元気盛んなピアニスト?
十(じゅう)の指(および)は椅子の下、ぱたりぱたりと弾(たた)きますれば、
かなし船唄ひたひたと、聞こえ来るよな思いにて、
さてこそ奴等の頭(おつむり)は、恋々として横に揺れ。

さればこそ、奴等をば、起(た)たさうなぞとは思いめさるな……
それこそは、横面(よこづら)はられた猫のよう、唸りを発し、湧き上り、
おもむろに、肩をばいからせ、おそろしや、
彼等の穿けるズボンさえ、むッくむッくとふくれます。

さて彼等、禿げた頭を壁に向け、
打衝(ぶちあ)てるのが聞こえます、枉がった足をふんばって
彼等の服の釦(ボタン)こそ、鹿ノ子の色の瞳にて
それは廊下のどんづまり、みたいな眼付で睨めます。

彼等にはまた人殺す、見えないお手(てて)がありまして、
引っ込めがてには彼等の眼(め)、打たれた犬のいたいたし
眼付を想わすどす黒い、悪意を滲(にじ)み出させます。
諸君はゾッとするでしょう、恐ろし漏斗に吸込まれたかと。

再び坐れば、汚ないカフスに半ば隠れた拳固(げんこ)して、
起(た)たそうとした人のこと、とつくり思いめぐらします。
と、貧しげな顎の下、夕映(ゆうばえ)や、扁桃腺の色をして、
ぐるりぐるりと、ハチきれそうにうごきます。

やがてして、ひどい睡気が、彼等をこっくりさせる時、
腕敷いて、彼等は夢みる、結構な椅子のこと。
ほんに可愛いい愛情もって、お役所の立派な室(へや)に、
ずらり並んだ房の下がった椅子のこと。

インキの泡がはねッかす、句点(コンマ)の形の花粉等は、
水仙菖の線真似る、蜻蛉(とんぼ)の飛行の如くにも
彼等のお臍のまわりにて、彼等をあやし眠らする。
――さて彼等、腕をもじもじさせまする。髭がチクチクするのです。

<スポンサーリンク>

ひとくちメモ

「蹲踞」Accroupissementsの次にあるのは
「坐つた奴等」Les Assisです。

「うずくまる」「しゃがむ」の次に
「坐る」とあり
それがどうした、と思いたくなる人の動作・仕草への観察ですが
なかなかどうして
ここにランボーの「言葉」の乱射・乱舞は
極限の時空を行くかのようです。

この詩の原典となった原稿は
二つが存在します。

一つは
ランボーが1871年9月に
ポール・ベルレーヌに宛てた
最初の書簡に添付した詩篇の中にあります。
もう一つは
ポール・ベルレーヌが
世界に先駆けて
アルチュール・ランボーの存在を知らしめた「呪われた詩人たち」の中に
ランボーの詩として引用したものです。
この両者には幾つかの異同があります。

中原中也は
「呪われた詩人たち」にある「アルテュル・ランボオ」を
2度にわたって翻訳していますが
この中でベルレーヌが引用した「Les Assis」を
1度目は昭和4年末から5年初めに
「坐せる奴等」のタイトルで訳しました。
この時に使用したテキストは
「ヴェルレエヌ全集」第4巻でしたが
第2次ペリション版の「ランボオ著作集」をも参照していた形跡があるそうです。
(角川新全集・翻訳・解題篇)

1度目の翻訳「坐せる奴等」のあと
昭和9年(1934年)には
文芸誌「苑」に2度目の訳で「坐った奴等」を発表しました。
2度目の翻訳は
「呪われた詩人たち」収録の「アルテュル・ランボオ」からの引用詩としてではなく
独立した詩として行いました。
この時には
第2次ペリション版を使い
新たな翻訳に作り直しました。

1度目は第1次形態、
2度目は第2次形態とされ
昭和12年の「ランボオ詩集」に発表した
3度目の訳は第3次形態とされ
これは第2次形態を踏襲し
「坐った奴等」のタイトルです。

 ◇

肉瘤こぶ
痘瘡あばた
腰骨こしぼね
古壁ふるかべ
瘡蓋かさぶた
可笑しな体躯
枉がつた木杭さながらの彼等の足
蟇ひきがえる
禿げた頭
人殺す、見えないお手
打たれた犬
恐ろし漏斗じょうご
夕映(ゆふばえ)や、扁桃腺の色
結構な椅子
ずらり並んだ房の下がつた椅子
……

次々に登場する
奇怪(きっかい)で
グロテスクで
醜悪な
壮絶なほど滑稽ですらある
「坐った奴ら」
すなわち
木っ端役人
プチ・ブル小役人
小心翼々の小官僚
……

 ◇

シャルルビル市立図書館で
若きランボーがむさぼり読んだのは
ユーゴー、コペ、バンヴィルばかりでなく
ドニ・ディドロやジャン・ジャック・ルソーばかりでもなく
フランソワ・ラブレーの「ガルカンチュア」あたりまで遡ったらしい――

ひとくちメモ その2

「坐つた奴等」Les Assisの主人公は
はじめ、その様態の描写で登場しますから
いったい何者であるのか分からないのですが
やがて、「彼等」として姿を現し
「老爺=ぢぢい」であることが明るみに出ます。

「老爺」の姿・形の
醜悪で不様で滑稽ですらある様態を描写するのに
韻を踏み
対句を交え
4行11連の中に
音律を整えた上に
絢爛豪華に言語を駆使し
色彩、陰影、匂い、音……
しかもこれは詩の実験ではない
詩の実践である以外にない、といえるような。

世の中の評論家が
ことごとく言語学者になるか
哲学者になるか
または音楽家になるかして
いつしか詩の解明・解読・鑑賞のために
言葉の上に言葉を重ね
ウーンと唸らされるような読みを見せてくれていますが。

 ◇

この「ぢぢい」は
きっかいもきっかい
(奇怪も奇怪)
その可笑しな身体を
彼らが坐っている椅子に接木(つぎき)してしまうのです!

接木――とは?

瓢箪(ヒョウタン)の台木に西瓜(スイカ)の苗を接ぐような
枳殻(カラタチ)の台木に蜜柑(ミカン)の苗を接ぐような
農業や園芸で行われる、あの「技」のことです。
椅子を台木にして老爺(ぢぢい)という苗を自ら接木するのです!

――というメタファーです。
――シンボライゼーションといってもいいかもしれません。

恐ろしく夢中な恋のその時に、と
中原中也が訳した「恋」とは
我が身を忘れて何かに没頭している状態のことでしょうか
文字通り、恋と解しても構いませんが
毎日毎日ワンパタンの営み
何時見ても同じ繰り返しは
端(外部)から見ていると
奇怪(きっかい)! 滑稽! 爆笑!

これら老爺(ぢぢい)は
何時も、椅子に腰掛け
椅子になってしまって
編み物しているのです。
日向ぼっこして
陽の光を浴びているとき
彼らの眼は
ひきがえるの眼になって
ピクピク震えます。

 ◇

「坐った奴等」は
昭和9年(1934年)7月発行の「苑」に発表されました。
ベルレーヌの「呪われた詩人たち」中の「アルテュル・ランボオ」を
初めて訳した昭和4年から5年が経過していることもあって
中原中也は
この第2次形態に自信を持っていた様子です。

この「苑」という詩誌の「寄稿家の会」が
昭和9年4月に2回あり
中原中也も出席者名簿の中に見えます。

最初は銀座の長谷川で、2回目は新宿のセノオで
行われたというこの集まりの出席者を見ておきますと

室生犀星、萩原朔太郎、津村信夫、中原中也、丸山薫、北川冬彦、堀辰雄、阿比留信、堀口大学、青柳瑞穂、辻野久憲、阿部知二、阪本越郎、佐藤朔、田中冬二、西脇順三郎、春山行夫、吉村鉄太郎、高祖保、村野四郎、滝口修造、中村喜久夫、乾直恵、百田宗治

――という、錚々(そうそう)たる顔ぶれです。
(角川新全集・翻訳・解題篇より)

中原中也訳「ランボオ詩集」を大岡昇平の指摘するように
ランボー=シュルレアリスト観の立場で批判した春山行夫がいたり
同じくシュルレアリズムの流れからのランボー論を展開する滝口修造がいたり
ランボーの苦手な堀口大学がいたり……
こんな面々が一堂に会することがあった、ということを知るだけで
驚きの会合です。

ひとくちメモ その3

「老爺=ぢぢい」が一体化した椅子は
「老爺=ぢぢい」にすこぶる親切で
褐色に燻されたような年季ものの藁は
「老爺=ぢぢい」が座った跡をとどめ
お尻の形にへこんでいるのです。
それをかつて照らした陽光は
とんがった穀物、麦の粒をぎっしり詰め込んだ藁の中に
くるまりこんで、今でも、ぬくもりを保っているのでございます。

さて奴等、「老爺=ぢぢい」たち、膝を立てて、
今度は元気盛んなピアニスト?
10本の指で、椅子の下を、パタリパタリと弾いてみれば
悲しい舟歌ひたひたと、聞えてくるような思いがします
それにつれ奴等のおつむは、右に揺れ左に揺れて恋々とする

そうであるからには、奴等を起こそうとは思いなさるな
そんなことしたら、横面引っ叩かれたネコのように、ギャーと唸り
湧き上がり、肩怒らせて、おそろしや
彼等のはいてるズボンまでもが、ムクムクムリムリ膨らんじゃいます

さて彼等、禿げ頭を壁に向け
ゴツンゴツンぶつけているのが聞えます、曲がった足を踏ん張って
彼等の服のボタンが、鹿の子色の瞳になって
それが廊下のどんづまりみたいな眼つきで、眺めます

 ◇

意味が通り難いものと思いきや
中原中也の訳は
若干の想像力で補えば
逐語訳を大幅に逸脱することなく
独自の詩的言語によって選び抜かれているのが分かります

 ◇

彼等にはまた人を殺す、見えないお手手がありまして
引っ込めがてに彼等の眼、打たれた犬は痛々しい眼つきを
思わせるドス黒い、悪意を滲み出させるのです
諸君はゾーッとするでしょう、恐ろしい漏斗(ジョーゴ)の穴に吸い込まれたかと。

ふたたび坐るかと見るや、汚いカフスに半ば隠した拳固を握り
起たそうとした人のことを、とっくりと思いめぐらします。
すると、貧しげに細った顎の下が、夕映え色、扁桃腺の色をみせて
グルリグルリと、今にもはち切れそうに動くのです。

 ◇

描写は、限りなく続きます。
エンドレス・テープのようです。
始まりが始まりですから
終わりが終わらない
物語なき物語。
これは
物語というよりは詩なのですから
もはや物語を期待する眼差しは打っちゃられます。

 ◇

しばらくして、強烈な眠気がやってきて、「老爺=ぢぢい」たちをこっくりこっくりさせる時
腕を枕に、彼等は夢みます、結構な椅子のことを。
本当に可愛いと愛情を抱いて、お役所の立派な部屋に
ズラリと並んだ房飾りの垂れ下がる椅子のことを思うのです。

インキの泡の跳ね返しの跡、コンマの形の花粉などは
水仙アヤメのラインに似た、トンボの飛行のようであり
彼等のヘソの周りにいて、彼等をあやしては眠らせます
――さて彼等、腕をモジモジさせるんです。髪の毛がチクチクするんです。

 ◇

日本的起承転結を思い描けば
それは丸ごと飲み込まれる
ディアレクチケーの渦流 ――。

「老爺=ぢぢい」に肉体化された身体が
彼らが坐っている椅子に
接木(せつぼく)してしまうというメタファーの謎だけが
鮮烈に刻まれます。

 ◇

敢えて言えば
丁度、朝日新聞12月11日付けの読書面「読みたい古典」欄で紹介されているような
ガルガンチュアとパンタグリュエル第1巻第13章の「壮絶な糞尿譚」――
「もっとも素敵な尻の拭き方」に近い流れにある
「譚詩」のつもりであるかもしれません。

ひとくちメモ その4

「坐つた奴等」とベルレーヌ「呪われた詩人たち」1

「坐った奴等」Les Assisは
ベルレーヌが「呪われた詩人たち」の中で
アルチュール・ランボーを紹介した時
ランボーの作品として引用した詩篇の一つです。

ベルレーヌは
「呪われた詩人たち」中の「アルテュル・ランボオ」に
「母音」
「夕べの祈祷」
「坐った奴等」
「びっくり仰天している子ら」
「虱をとる女たち」
「酔っぱらった船」の全文、
「初聖体拝領」
「パリは再び大賑わい」
「永遠」の一部を引用しました。
(※以上のタイトルは、中原中也訳のものと必ずしも一致するものではありません。)

これらの詩は
ベルレーヌとランボーの親密な交流の中で
ランボーがベルレーヌに預けたり
ベルレーヌがランボーの口から聞き取り
筆写しておいたりした詩篇群から選んだものでした。

ベルレーヌは
1884年、ヴァニエ書店から「呪われた詩人たち」を出版、
コルビエール
ランボー
マラルメの3人の詩人論を著しましたが
1888年に、同書の増補改訂版を刊行、
新たに、ヴァルモール
リラダン
ポーヴル・レリアンを追加しました。

ポーヴル・レリアンは
ポール・ヴェルレーヌPaul Verlaineの綴りを入れ替えたアナグラムによる偽名で
ベルレーヌ自身のことです。

ベルレーヌが
パリで「呪われた詩人たち」を発表した頃
ランボーは詩活動から遠ざかり
アフリカ(現エチオピア)で
武器などを商うビジネスに従事していました。

中原中也が訳した「アルテュル・ランボオ」は
この「呪われた詩人たち」の中にありますが
テキストとして用いたのは
この増補改訂版を使用して編集された
メッサン版「ヴェルレーヌ全集・第4巻」にあるものです。

ここで中原中也が訳した
この「呪われた詩人たち」の中の「アルテュル・ランボオ」を読んでおきましょう。

中原中也訳の「アルテュル・ランボオ」は
未発表で未完の散文ですが
この中に「坐った奴等」の第1次形態が
「坐せる奴等」のタイトルで訳されてあり
1次形態ながらビビッドな訳出になっています。

中原中也の訳稿は2種類あり
訳稿A、訳稿Bと称されていますが
「坐せる奴等」は、訳稿Bにあります。

訳稿Bは、
「坐せる奴等」を引用し
解説を加えたベルレーヌの文の翻訳です。
まずは、その訳稿Bの解説部分を見ます。

 *

 アルテュル・ランボオ

        ポール・ヴェルレーヌ

(訳稿B)

  坐せる奴等
(省略)

私は今此の詩を、学者ぶつて冷然と誇張して全部掲げた、そのいともロジックな終りの章、かくも嬉々として果断な章をまで掲げるを得た。読者は、今やイロニイの力、此の詩人が恐るべき言葉の力を感得せられたことと思ふ。それよ、此の詩人が我々に考慮すべく残したものは、かのいと高き賜物、至上の賜物、智識の壮大な立証、誇りかな仏国的経験である。最近の卑怯なる国際主義流行に際して、力説すべきは、民族生来の宗教的崇高、即ちランボオが人間的心と魂と精神との不滅の高貴性の不羈の確言である。即ち千八百八十三年の自然主義者等が狭き趣味、絵画的関心によつて否みし優しさ、強さ、また大いなる修辞をである!

 強さは、上記の詩篇には殊によく顕はれてゐる。その強さたるや逆説や、或る種の形に紛れてのみ現はされ得る所の恐しく美しい気雰の其処に潜められてゐる。その強みは、美しく純粋な彼が総体の中に、この一文が終る時分にはいよいよ明瞭となるであらう。差当り、それは「慈悲」だと云つておかう、従来は知られてゐなかつた特殊な慈悲、其処に珍奇は、かの思想と文体との純潔さ、極度の優しさに、塩や胡椒の役をする。

 少しくは野生的で、非常に軟かく、戯画風に綺麗で、親しみ易く、善良で、なげやりで、朗らかで、また先生ぶつてゐる、次の作品の如きを我等嘗ての文学に覓めることは出来ない。

(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳」より)
※原作では「なげやり」に傍点があります。また、読みやすくするために、原作にはない行空きを加えてあります。編者。

ひとくちメモ その5

「坐つた奴等」とベルレーヌ「呪われた詩人たち」2

「坐った奴等」Les Assisは
ポール・ベルレーヌが「呪われた詩人たち」の中の
「アルチュール・ランボー」で
ランボーの作品として引用した詩篇の一つです。

それを中原中也が訳した未発表原稿があり
訳稿A、訳稿Bと分類整理されていますが
訳稿Bには「坐せる奴等」はあります。
解説部分に引き続き
詩の部分を読んでおきます。

 ◇

昭和4年(1929年)から同5年(1930年)にかけて
中原中也は
「呪われた詩人たち」の「トリスタン・コルビエール」、
「ポーヴル・レリアン」を続いて翻訳し発表しましたが
この「アルテュル・ランボオ」は
同じ頃に翻訳に取りかかり
昭和7年前後にも再度試みましたが
いずれも決定稿にいたらず、未発表に終りました。

この未完成原稿は
第1次形態になります。

大岡昇平は
未完訳の理由を
「アルテュル・ランボオ」に引用されている「酔ひどれ船」の翻訳に手間がかかったため、と推察しています。
(「角川新全集・第3巻・翻訳・解題篇」)

 ◇

第1次形態は
第2次形態、第3次形態との間に大幅な異同がありますが
初の翻訳であることの瑞々しさのようなものが漂い
異なった味わいがあるところを見逃せません。

 *

 アルテュル・ランボオ

        ポール・ヴェルレーヌ

(訳稿B)

  坐せる奴等

狼の暗愁、雹害、緑の指環を留めた眼、
腰に当てられ縮(ちぢ)かみ膨れた奴等の指、
古壁の癩を病む開花の如く
乱れた旋毛(つむじ)の奴等の頭、

奴等は癲癇に罹つた情愛の中に奴等の椅子の
大きい骨組のやうに奇妙な骨骼を接木した。
奴等はその佝僂な木柵のやうな脚を
朝でも夕方でも組むでゐる。

これ等老ぼれ達は何時も椅子で編物をしてゐる、
活潑なお日様が彼等の皮膚に沁みいるのを感じながら、
或は、その上で雪の溶けつつある硝子のやうな奴等の眼を、
蟇蛙(ひきがえる)の傷ましき戦慄もて震撼されながら。

椅子は奴等に親切なもんだ、茶つぽくなつて、
藁芯は奴等の腰の角度どほりに曲つてゐる。
過ぎし日の太陽の霊は、穀粒がウヅウヅする
穂積の中にくるまれて明るむでゐる。

して奴等は、膝を歯に、ピアニストさながら、
太鼓のやうにガサツク椅子の下に十の指をやり、
わびしげな舟唄をしんねりむつつり聴いてゐる、
そして頭は愛のたゆたひにゆれだす。

おゝ! 奴等を呼ぶな! 呼びでもすれあ大変だ……
彼等は昂然として擲られた猫のやうに唸りだす、
徐ろに肩をいからせながら、おお桑原々々!
ズボンまでが腰のまはりに膨らむだらう。

そして君は聞くだらう、奴等が禿げ頭を
暗い壁に打ちつけるのを、曲がつた足をヂタバタしながら、
奴等の服のボタンは鹿ノ子色の瞳のやうで
廊下のどんづまりみたいな視線を君は投げかけられる!

いつたい奴等は人を刺す目に見えない手を持つてゐる……
ひつ返す時に、奴等の濾過器のやうな視線・黒い悪意は
打たれた牝犬の嘆かはしげな眼をしてゐる、
君は狂暴な漏斗の中に吸込まれたやうでがつかりする。

再び着席して、汚れたカフスの中に拳をひつこめて、
奴等は奴等を呼び起した者のことを考へてゐる
そして、夕焼のやうな奴等の咽喉豆(のどまめ)が
か弱い顎の下で刳られるやうに動くのを覚える。

はげしい睡気がきざす時、
奴等は結構な椅子の上で夢みる、
ほんに可愛いい布縁の椅子のことを
立派な事務室にその椅子が竝べられたところを。

インクの花は花粉の点々と跳ねつかし
蹲つた臍に沿つて水仙菖の繊維のやうに
蜻蛉の飛行のやうに奴等をこそぐる、
――そして奴等の手は頬鬚に突かれていぢもぢする。

(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

ひとくちメモ その6

「坐つた奴等」とベルレーヌ「呪われた詩人たち」3

ポール・ベルレーヌの「呪われた詩人たち」は
アルチュール・ランボーを
世界で初めて紹介したと言ってよいほどに
ランボーの存在をメディアに乗せたのですから
その功績は言葉に尽くせないものです。

「坐った奴等」Les Assisは
その中でランボーの作品として引用された詩篇の一つですから
ベルレーヌがどのように紹介したのかを知るだけでも
ワクワクする経験です。

「呪われた詩人たち」は
ベルレーヌ全集の原典にあたらなければ読めないほど
たやすくは読めないこの国、日本の状況は
文化がエリートに独占されていることを象徴していますが
意外にも、中原中也の翻訳で、半分ほどが読めるのですから
それだけでも
中原中也の翻訳の意義の大きさを推し量ることができると言えるものです。

そう言い得るほど
昭和初期に中原中也が
詩心を砕くようにして紡ぎだした
ランボー詩の翻訳(という営為)は光彩を放つものですし
翻訳(の内容)そのものも輝いています。

特に措辞の一つ一つ、
語彙の選択の一つ一つに
詩人の魂が乗り移っているようなところがあるのは
詩の実作に命がけの詩人が
実作に懸けるのと同じ姿勢で
「一辞一句翻訳した」(大岡昇平)からであることに違いありません。

詩人自ら「後記」に記したように
一字一句に「語勢」があります。

というわけで
中原中也訳の「アルテュル・ランボオ」は
未発表で未完成であり
その上、散文であるにもかかわらず
読んでおくに値しますし
この機会をおいては読む機会が訪れることもないでしょうから
訳稿Aにも目を通しておくことにします。

訳稿Bは、
「坐せる奴等」を引用し
解説を加えたベルレーヌの文の翻訳ですが
訳稿Aは
ランボーという詩人の存在を
世の中の人々に初めて知らせようとするベルレーヌの
どこかしら誇りと威厳とに満ちた案内文(と中原中也訳は感じられる)とともに
「母音」
「夕の弁」の2つの詩篇を訳出しています。

ベルレーヌの原作には
「びっくり仰天している子ら」
「虱をとる女たち」
「酔っ払った船」
「初聖体拝領」(一部)
「パリは再び大賑わい」(一部)があるのですが
中原中也は完訳していません。

 *

 アルテュル・ランボオ

        ポール・ヴェルレーヌ

(訳稿A)

 私はアルテュル・ランボオを知るの喜びを持ってゐる。今日、様々の瑣事は、私を彼
から遠ざけてゐる。尤も、彼が天才及び性格に対する私の嘆賞は、一日として欠けた
ことはないのだが。

 私達の親交の少し前、アルテュル・ランボオが十六七才であった頃、既に彼は、公
衆が知り、私などが出来得る限り引証し解説してやるべき詩籠を所持してゐた。

 大きい、骨組のしつかりした、殆んど運動家のやうで、完全に楕円形のその顔は追
放の天使のやうであつた。竝びのわるい明褐色の髪をもち、蒼ざめた碧眼は気遣わ
しげに見えた。

 アルデンヌ生れの彼は、その綺麗な訛を忽ちに失くしたばかりか、アルデンヌ人らし
い速かな同化力を以て巴里語を使駆した。

 私はまづ、アルテュル・ランボオの初期の作品、いとも早熟な彼が青年期の作品に
就いて考へてみよう、――気高い腺疫、奇蹟的発情の彼が青春時!――その後で彼
のその烈しい精神が、文学的終焉をみる迄の様々な発展を調べることとしよう。

 偖、前言すべき一事がある。といふは、若し此の一文が偶然にも彼の目に止るとす
るならば、アルテュル・ランボオは、私が人間行為の批議する者でなく、又私が彼に
対する全き是認(私達の悲劇に就いても同様)は、彼が詩を放棄したといふことに対
しても可及するものと諒察するであらう。お疑ひならないとなら云ふが、この放棄は、
彼にあつては論理的で正直で必要なことであつたのです。

 ランボオの作品は、その極度の青春時、1869、70、71年を終るに当つては、もは
や沢山であつて、敬すべき一巻の書を成してゐた。それは概して短い詩を含む書で
ある、十四行詩、八行詩、四、五乃至六行を一節とする詩。彼は決して平板な韻は踏
まなかつた。しつかりした構へ、時には疑つてさへゐる詩。気儘な句読は稀であり、句
の跨り一層稀である。語の選択は何時も粋で、趣向に於ては偶々学者ぶる。語法は
判然してゐて、観念が濃くなり、感覚が深まる時にも猶明快である。加之請ふべきそ
の韻律。

 次の十四行詩こそそれらのことを証明しよう。(以下、次回につづく。)

(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳」より)

 ◇

以上に続き
「母音」の訳と、若干の解説
「夕の弁」を訳したところで
中原中也の訳は終りますが
その部分は次回のおたのしみにします。

ひとくちメモ その7

「坐つた奴等」とベルレーヌ「呪われた詩人たち」4

中原中也訳の「アルテュル・ランボオ」には
訳稿Aと訳稿Bが残されています。

訳稿Aは
ランボーという詩人の案内文と「母音」「夕の弁」の2つの詩篇、
訳稿Bは
「坐せる奴等」の詩篇と解説
――という構成で、両者に重複はないということですから
ベルレーヌの原作の半分に満たないほどの翻訳ということになります。

訳稿Aの後半部分
「母音」とベルレーヌの解説
「夕の弁」を見ておきます。
(※ここでは、訳稿Aを全文通しで掲出します。)

 ◇

 アルテュル・ランボオ

        ポール・ヴェルレーヌ

(訳稿A)

 私はアルテュル・ランボオを知るの喜びを持ってゐる。今日、様々の瑣事は、私を彼から遠ざけてゐる。尤も、彼が天才及び性格に対する私の嘆賞は、一日として欠けたことはないのだが。

 私達の親交の少し前、アルテュル・ランボオが十六七才であった頃、既に彼は、公衆が知り、私などが出来得る限り引証し解説してやるべき詩籠を所持してゐた。

 大きい、骨組のしつかりした、殆んど運動家のやうで、完全に楕円形のその顔は追放の天使のやうであつた。竝びのわるい明褐色の髪をもち、蒼ざめた碧眼は気遣わしげに見えた。

 アルデンヌ生れの彼は、その綺麗な訛を忽ちに失くしたばかりか、アルデンヌ人らしい速かな同化力を以て巴里語を使駆した。

 私はまづ、アルテュル・ランボオの初期の作品、いとも早熟な彼が青年期の作品に就いて考へてみよう、――気高い腺疫、奇蹟的発情の彼が青春時!――その後で彼のその烈しい精神が、文学的終焉をみる迄の様々な発展を調べることとしよう。

 偖、前言すべき一事がある。といふは、若し此の一文が偶然にも彼の目に止るとするならば、アルテュル・ランボオは、私が人間行為の批議する者でなく、又私が彼に
対する全き是認(私達の悲劇に就いても同様)は、彼が詩を放棄したといふことに対しても可及するものと諒察するであらう。お疑ひならないとなら云ふが、この放棄は、彼にあつては論理的で正直で必要なことであつたのです。

 ランボオの作品は、その極度の青春時、1869、70、71年を終るに当つては、もはや沢山であつて、敬すべき一巻の書を成してゐた。それは概して短い詩を含む書である、十四行詩、八行詩、四、五乃至六行を一節とする詩。彼は決して平板な韻は踏まなかつた。しつかりした構へ、時には疑つてさへゐる詩。気儘な句読は稀であり、句の跨り一層稀である。語の選択は何時も粋で、趣向に於ては偶々学者ぶる。語法は判然してゐて、観念が濃くなり、感覚が深まる時にも猶明快である。加之讃ふべきその韻律。

 次の十四行詩こそそれらのことを証明しよう。

     母音

A黒、E白、I赤、U緑、O青、母音達よ、
私は語るだらう、何時の日か汝等が隠密の由来を。
A、黒、光る縄で毛むくじやらの胸部
むごたらしい悪臭のめぐりに跳び廻る、

暗き入海。E、気鬱と陣営の稚淳、
投げられし誇りかの氷塊、真白の王、繖形花の顫へ。
I、緋色、咯かれし血、美しき脣々の笑ひ――
怒りの裡、悔悛の熱意の裡になされたる。

U、天の循環、蒼寒い海のはしけやし神々しさ、
獣ら散在せる牧場の平和、錬金道士が
真摯なる大きい額に刻んだ皺の平和。

O、擘(つんざ)く音の至上の軍用喇叭、
人界と天界を横ぎる沈黙(しじま)
――おゝ、いやはてよ、菫と閃く天使の眸よ!

 アルテュル・ランボオの美神は、すべての調子をとつて用ゐた。竪琴の全和絃、ギタアの全和絃をかなで、胡弓の弓は宛ら自分自身であるやう敏捷に奏せられた。
ランボオが愚弄家、嘲弄家と見えるのはその時である。彼が愚弄家嘲弄家の親玉たる時こそ、彼が神の手になる大詩人たる時である。

 見よ、「夕(ゆふべ)の弁」と「坐せる奴等」を、その前に跪くべく!

 夕の弁

我は理髪師の手もてる天使の如く坐してありき、
深き丸溝あるビールのコップを手に持ちて、
小腹と首をつん反(ぞ)らせ、ギャムビエを歯に、
ふくよかに風孕む帆が下に。

古き鳩舎の火照りある糞のごと
千の夢は、我をやさしく焦がしたり。
と忽ちに、我が哀しき心、熔けたる
暗き黄金の血を流す 白木質となれりけり。

軈て我、細心をもて我が夢を呑み下せしに、
惑乱す、数十杯のビール傾け、
扨入念す、辛き心を浚はむと。

やさしさ、杉とヒソプの主の如く、
いや高くいや遠き褐の空向け放尿す、
大いなるヘリオトロープにあやかりて。

(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。


<スポンサーリンク>