盗まれた心

私の悲しい心は船尾に行って涎(よだれ)を垂らす、
私の心は安い煙草にむかついている。
そしてスープの吐瀉(げろ)を出す、
私の悲しい心は船尾に行って涎を垂らす。
一緒になってげらげら笑う
世間の駄洒落に打ちのめされて、
私の悲しい心は船尾に行って涎を垂らす、
私の心は安い煙草にむかついている!

諷刺詩流儀の雑兵気質の
奴等の駄洒落が私を汚した!
舵の処(とこ)には壁画が見える
諷刺詩流儀の雑兵気質の。
おお、玄妙不可思議の波浪よ、
私の心を浚(さら)い清めよ、
諷刺詩流儀の雑兵気質の
奴等の駄洒落が私を汚した。

奴等の噛煙草(たばこ)が尽きたとなったら、
どうすりゃいいのだ? 盗まれた心よ。
それこそ妙な具合であろうよ、
奴等の煙草が尽きたとなったら。
私のお腹(なか)が跳び上るだろう、
それで心は奪回(かえ)せるにしても。
奴等の噛煙草(たばこ)が尽きたとなったら、
どうすりゃいいのだ? 盗まれた心よ。

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ひとくちメモ

盗まれた心 Le Cœur voléは
中原中也訳「ランボオ詩集」の12番目にある作品。
解釈をめぐって
さまざまな説が乱れ飛ぶ詩です。

難解ではないけれど
独特の「象徴化」が
多様な解釈を生じさせることになるのは仕方がなく
中原中也がこの詩に取り組みながら
何を考え、どのように解釈していたか
どんな想像を描いていたか、知りたいところです。

そこで、若干、そのヒントになるのが
大岡昇平の回想です。

1979年に「思い出すことなど」として「中原中也必携」(学燈社)に初出・発表され
後に「生と歌 中原中也その後」(角川書店)に収録された回想の中で
大岡は中原中也との喧嘩についてあらいざらい述べていて
その一部としてながら、
新宿の花園アパートでやった
3度の喧嘩のうちの一つを詳しく語っているのですが
その中に、まさに「盗まれた心」の翻訳をきっかけにした喧嘩のことが出てきます。

昭和11年(1936)の6月末か7月初のこととして、
「盗まれた心」の第2連の

諷刺詩流儀の雑兵気質の
奴等の駄洒落が私を汚した!

で、「諷刺詩流儀」とあるのは誤訳であることを
大岡昇平が指摘したことから
あやうく大事になるところを青山二郎が中に入って
事なきを得た、という喧嘩にならなかった喧嘩に触れたのです。

そこのところを
「生と歌 中原中也その後」から引用しておきます。

――「諷刺詩流儀」ってのは誤訳で、原文はithyphallique兵隊の隠語で、辞書にない。「助平の」と訳されるのが普通、これは私自身の昭和三年頃のよた訳なんです。小林が奈良へ行ったあと、代りに中原にフランス語を教わることにしていた、いや何も習うことはないけれど、親から飲み代を出させてるためです。一週間の間にランボーやネルヴァルを一篇か二篇訳して、二人で見せっこする。僕が初期詩篇をやり、彼は「イリュミナシオン」の中の行分け詩をやっていた。それぞれが気に入った、そして未訳のものをやった。彼はたしか「蹲踞」「忍耐」「カシスの川」を持って来たと思います。僕は「烏」「盗まれた心」「フォーヌの頭」「夕べの辞」などをやった。訳稿を取り替えっこをするんですが、彼は「白痴群」第五号に訳したヴェルレーヌの「ポーブル・レリアン」の中に「盗まれた心」がありますが、この辺はそれは僕のままなんです。そして山本文庫版でも直ってない。僕のフランス語もその後少しは進歩してるから、phallique(男根的)って字が入っているから、あれは違うよ、こんど全訳を出す時は直した方がいい、といったんです。彼は変な顔をしてしばらく黙ってこっちを見てたが、青山とほかの話をしていると、不意に「お前はおれが、お前の訳を盗ったっていうのか」と変にこもった声でいう。彼がおこっていることがわかって、こっちはびっくり、僕の方じゃ昔仲よく翻訳してた頃の昔話をしているつもりですからね。「玄妙不可思議の波浪」っていうのも僕の珍訳、「ちょっとした文句の違いが、全体を替えるんだ」っていうんだが、彼は「波浪よ」と「よ」をつけただけですからね。僕は「よ」という詩人の慣用句が大嫌い、――そんなことをいっているうちに、だんだんかっかしてくる、この時は、青山から、「大岡はお前が盗ったとは、一度もいってねえじゃねえか」と取りなしてくれて、大事にいたらなかった。(一部の校正ミスがありますが、原文のママにしてあります。編者。)

ひとくちメモ その2

「思いだすことなど」は
大岡昇平が「中原中也必携」(学燈社)」という
「別冊国文学」の1979年夏号の巻頭記事のための語り下ろしで
昭和初期の経験の記憶をたどったものですが
予め練られたテーマに沿って語られたものがあり
それからの書き起こしであるということを差し引いて、
70歳の回想ということを差し引いたとしても、
中原中也本人に反論することができないということを差し引くことはできず
どうしたって不在者批判の印象を拭いきれません。

そうしたことを理解した上で
この回想を読まなくてはなりませんが
この回想がないよりはあったほうが
断然、中原中也がこの時何を考えていたかを知ることになりますし
「盗まれた心」という詩作品を
詩人がどのように見なしていたか
詩人のこの詩への思いへ近づくことができるでしょうから
貴重な証言であることに変わりはありません。

これほどまでのことを言えるのは
やはり、詩人の同時代者であり
同じ文学の道を行こうとしていた同士であり
そのうちでも、ごく親しい友人であり
友人のうちでも、特に近しい友人、つまり親友であり
その親友同士がランボーの詩の翻訳を
かつて共にしあった仲であったからのことでしょう。
「僕の方じゃ昔仲よく翻訳してた頃の昔話をしているつもりですからね。」と
大岡昇平が語っているのはそのあたりの事情です。

大岡が「盗まれた心」に関して述べているところは

1、「諷刺詩流儀」ってのは誤訳で、原文はithyphallique兵隊の隠語で、辞書にない。
「助平の」と訳されるのが普通、これは私自身の昭和三年頃のよた訳なんです。

2、彼は「白痴群」第五号に訳したヴェルレーヌの「ポーブル・レリアン」の中に「盗まれ
た心」がありますが、この辺はそれは僕のままなんです。そして山本文庫版でも直っ
てない。

3、僕のフランス語もその後少しは進歩してるから、phallique(男根的)って字が入って
いるから、あれは違うよ、こんど全訳を出す時は直した方がいい、といったんです。

4、「玄妙不可思議の波浪」っていうのも僕の珍訳、

5、彼は「波浪よ」と「よ」をつけただけですからね。僕は「よ」という詩人の慣用句が大
嫌い、

――の5点です。

一つひとつに詩人は回答した様子はありませんが
詩人が回答したにもかかわらず
大岡の記憶から抜けたということもあり得ますから
その辺は差し引いて考えたほうがよく
そうすると、大岡の発言の一方的であることも少しは見えてくるのですが
ここでの詩人の反応は

1、彼は変な顔をしてしばらく黙ってこっちを見てたが、

2、不意に「お前はおれが、お前の訳を盗ったっていうのか」と変にこもった声でいう。
彼がおこっていることがわかって、

3、「ちょっとした文句の違いが、全体を替えるんだ」っていうんだが、

4、だんだんかっかしてくる、 ※この「かっかしてくる」のは、双方のことらしい。

――の4点です。

中原中也は、
「誤訳」への反論をしなかったようですが
反論をしなかったことを
ただちに誤訳を認めたから、と見なしてよいものではなく
その誤訳は大岡のものだから
なんと反論してよいか、戸惑ったというのが真実のようであり、
そのうえ、多義的な語句を一義的に規定しなくてもよいと考えたのかもしれず
また、「玄妙不可思議の波浪よ」と
「よ」をつけて独創とした詩人の翻訳の技が
「大嫌い」と大岡に生理的な嫌悪感を抱かれるのは勝手ですが
このどちらの件にしても、両者はまったくすれ違っていることがわかります。

ひとくちメモ その3

大岡昇平が「大嫌い」といい
「詩人の慣用句」と断じた「よ」は、

おゝ、玄妙不可思議の波浪よ、
私の心を浚ひ清めよ、

どうすれあいいのだ? 盗まれた心よ。
それこそ妙な具合であらうよ、

どうすれあいいのだ? 盗まれた心よ。

――の3度、登場しますが、
どの場合も、詩の自然な流れに沿っています。

そもそも

おゝ、玄妙不可思議の波浪よ、
私の心を浚ひ清めよ、

と、歌われる「盗まれた心」第2連は
なにやら「安い煙草」にむかついた私がゲロを吐き
下品極まる駄洒落に汚れた心を歌った第1連を受けて
その汚れてしまった心を洗い流し清めておくれと
祈り懇願する気持ちを歌ったもので
呼びかけの「よ」として必須の措辞といえるものです。

これを「大嫌い」と言うのは勝手というものですが
それは詩の評価ではなく
嫌悪感の表明ですから
もしも、それが表明されたのでしたら
中原中也が怒っても当然で
喧嘩を売っているのが大岡昇平か中也中也かのどちらかは明白です。

70歳になってまで
こんなふうに表白する大岡昇平の
大作家としての「上から目線」は
そのまま昭和11年、大岡27歳の血気盛ん振りに通じていることが想像されますが
これでは詩人のプライドなんてあったものではなく
「玩具の賦」で詩人が展開した
「遊び心のない」
「玩具の楽しみを知らない」
プロザイックな立場とは
ますます遠ざかっていく詩人の立場が
痛いほどに見えてくるというものです。

花園アパート時代の中原中也に
どことはなく沈んだ感じがあり
昭和10年春には
市谷へ転居する詩人ですが
ここでも「私はその日人生に、椅子を失くした」と
遠い日に歌ったまんまの詩人がいるような気がしてなりません。

ひとくちメモ その4

「盗まれた心」 Le Cœur voléの原典には
三つの異なるテキストが存在し
それぞれのテキストには
それぞれ異なるタイトルが付けられています。

三つのタイトルとは、
「処刑された心臓(こころ)」
「道化師の心臓(こころ)」
「盗まれた心臓(こころ)」。

本文は同じ内容でありながら、
タイトルは主格「心臓(こころ)」の修飾語を
ある時に「処刑された」
ある時に「道化師の」
ある時に「盗まれた」と
送られた相手によって変化するバージョンを持っているのです。

「処刑された心臓(こころ)」は
1871年5月13日付けで
イザンバールに宛てた書簡に記された自筆の原稿、
「道化師の心臓(こころ)」は
1871年6月10日付けで
ポール・デメニーに宛てた書簡に記された自筆原稿、
「盗まれた心臓(こころ)」は
1871年10月に書かれたことが推定されている
ポール・ヴェルレーヌによる筆写原稿です。

中原中也が翻訳に使ったテキストは
第2次ペリション版で
ヴェルレーヌの筆写原稿を採用していますから
タイトルは「盗まれた心臓(こころ)」です。

いずれも1871年に書かれていますが
この年に起こったパリ・コミューンの状況を反映していて
宛てた相手それぞれに
異なったタイトルをつけたものと見られているのです。
書簡を書いた時のパリ・コンミューンが
解放区であったか
それとも、労働者の敗北が決まっていた時だったかによって
詩(タイトル)に変化を及ぼし
詩の解釈にも相違を生んでいます。

どのバージョンにしたって
この詩はランボーのパリ・コンミューン体験をモチーフにしたものと見られ
3月18日に成立し
5月28日に崩壊したとされているコンミューンを
ランボーがどのように体験したか、
あるいは、しなかったかを含めて
パリで書いたのか、シャルルビルで書いたのか、などの問いに答える
さまざまな説が飛び交います。

どの制作日であっても
どれほどの距離を置いていたかの判断の相違はあるものの
パリ・コンミューンという歴史の只中に
ランボーが入り込んだことは間違いないことで、
「自由の女神と美神ヴィーナス」を夢に描いて
脱出を試みようとしていた片田舎シャルルビルの青年が
世界史の表舞台へと
突如、アンガジエ(参加)してしまったことは確実です。

詩は
大衆革命の動乱の最中に、
期せずして、性的な暴力にさらされた経験を歌ったものとする解釈や
「見者の美学」に立とうとする高揚と挫折を歌ったものとする解釈など、
諸説紛々としていますが
原色めくるめく明るい光に満ちたトーンは消え失せ
処刑された、とも、
道化師の魂を装った、とも、
盗まれてしまった、とも言えるランボーの
心臓の鼓動の暗鬱な響きだけが伝わってくるかのようです。

どうすれあいいのだ? 盗まれた心よ。

というエンディングは、
答えを見つけられないで
途方に暮れているランボーの立ち姿ですが
このどん底は
やがて生まれる「酔いどれ船」の
絢爛たる冒険譚への序章の位置にあるものであるのを知れば
ややほっとした気持ちにもなれるというものです。

大岡昇平の回想は、
中原中也が身を置いていた
花園アパートの青山二郎のサロンにも
「ランボーという事件」が飛び火していてことを明らかにしているのですが
このサロンに出入りしていた文士や評論家たちは、
この「盗まれた心」を巡って
どのような会話を交わしていたものでしょうか。
もはやそれは想像する以外になく
大岡昇平の回想はこの点でも
貴重というほかにいいようがありません。

ひとくちメモ その5

「盗まれた心」 Le Cœur voléが
パリ・コンミューンの最中で作られたものであることを
生き生きと伝える実証的研究の一つを
ここで紹介しておきましょう。

アンリ・マタラッソー、ピエール・プティフィスの共作
「ランボーの生涯」(粟津則雄、渋沢孝輔訳、筑摩書店、1972年)の中の一節ですが、
この詩を解釈する一つの角度を提供してくれていて、参考になります。

以下引用。

 はるかパリの方で燃えあがっている大義のために身を捧げたいという欲求は、かつてランボーの心を去ったことはなかった。ところで、コミューン軍が、日給30スーで兵隊を募集していた。彼は、ためらうことなく出発した。4月20日頃のことと思われる。例によって徒歩で、一日、3、40キロという速度だった。もっとも、馬車の御者に呼びかけて、今日「ヒッチハイク」と呼ばれていることもやった。運賃がわりに、漫画を描いてみせたり、いろいろな逸話を話してきかせたりした。戦争のおかげで、それらの題材は尽きることがなかったのである。

パリの市門に到着したのは、1871年4月23日か24日頃のことであった。徴募本部で、彼は歓迎され、彼のために、帽子をまわしてくれた(ドラエーの話では、21フラン13スー集ったということだ)。それで、彼は、これらの恩人たちにおごった。つまり、冒険は、調子よく始まったのである。彼は、バビロン街の兵舎に連れていかれた。そして、義勇兵のグループに入れられた。

その当時、パリとヴェルサイユとのあいだは、現代的な言いかたをすれば、「妙な戦争」だった。互いに探りあい、おのれの陣営を固めていた。はげしい戦闘が行われるのは、周辺部の、ヴァンヴやイシーのあたりだけだった。全体の雰囲気には、攻囲されたメジエールを思い起させるところがあった。同じような荒々しい決定があり、同じような気ちがいじみた信頼があり、同じような無秩序があった。

兵営には、兵士や、労働者や、アルジェリア歩兵や、国民軍兵士や、水夫などが、武器も毛布もなしに、ごちゃごちゃにつめこまれていた。かくして、或る朝、ランボーは、同室の屈強な男たちにの中で目覚めた。どいつもこいつも、多かれ少かれ入れ墨をしていて、彼と同様、命を引きかえにした志願兵だった。外出は自由だった。

彼は、フォランという同じ年頃の若者といっしょに(フォランは、もうすでに絵を描いていた)、パリを歩きまわった。このことは、フォランが、フェルナン・グレグ氏にはっきりと語ったことである。グレグ氏は書いている。「彼(フォラン)は、私に、パリの浮浪児と呼ばれていた若い頃の話をきかせてくれた。彼の話では、彼は、コミューンのときに、ランボーといっしょに『ぶらつきまわった』ということだ。そのとき或る司祭が、ランボーに興味を抱いたという話だが、私は、もうその司祭の話を覚えていない。」

ランボーは、ものを書いていた。彼が、小さなノートを、『共産主義政体』の試案(これは現在未発見)で埋めたり、『パリの軍歌』を作ったりしたのは、おそらくこの兵営でのことであろう。だが、革命軍の兵士たちとの接触は、程なく、彼に嘔吐を催させた。食事、嗅ぎ煙草、泥酔、卑猥な言行、彼らは、こういうことから抜け出ようとしなかった。

ランボーは、彼らの理想が含む高貴さを呼び起そうと、空しく努めたであろうか? 彼らの淫奔なふるまいの犠牲となったであろうか? そらはわからない。しかし、4月末に、或る辛い事件が、彼に、いっさいを放棄させたのである。苦痛に心をくだかれた彼は、その失意幻滅を或る詩で語った。

この詩には、順次次の三つの題が与えられている。『処刑された心』、『道化師の心』、『盗まれた心』。ランボーは、一個の英雄たろうとした。ところが、ひとりの道化者にすぎなかったのである。

(※読みやすくするために、改行と行空きを加えてあります。また、漢数字を洋数字に変えました。編者。)


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