やさしい姉妹

若者、その眼は輝き、その皮膚は褐色(かちいろ)、
裸かにしてもみまおしきその体躯(からだ)
月の下にて崇めらる、ペルシャの国の、
或る知られざる神の持つ、銅(あかがね)に縁(ふち)どられたる額して、

慓悍(ひょうかん)なれども童貞の悲観的なるやさしさをもち
おのが秀れた執心に誇りを感じ、
若々し海かはた、ダイアモンドの地層の上に
きららめく真夏の夜々の涙かや、

此の若者、現世(うつしよ)の醜悪の前に、
心の底よりゾッとして、いたく苛立ち、
癒しがたなき傷手を負いてそれよりは、
やさしき妹(いも)のありもせばやと、思いはじめぬ。

さあれ、女よ、臓腑の塊り、憐憫の情持てるもの、
汝、女にあればとて、吾(あ)の謂うやさしき妹(いも)にはあらじ!
黒き眼眸(まなざし)、茶色めく影睡る腹持たざれば、
軽やかの指、ふくよかの胸持たざれば。

目覚ます術(すべ)なき大いなる眸子(ひとみ)をもてる盲目(めくら)の女よ、
わが如何なる抱擁もついに汝(なれ)には訝かしさのみ、
我等に附纏(いつきまと)うのはいつでも汝(おまえ)、乳房の運び手、
我等おまえを接唇(くちづけ)る、穏やかに人魅する情熱(パシオン)よ。

汝(な)が憎しみ、汝(な)が失神、汝が絶望を、
即ち甞ていためられたるかの獣性を、
月々に流されるかの血液の過剰の如く、
汝(なれ)は我等に返報(むく)ゆなり、おお汝、悪意なき夜よ。

一度(ひとたび)女がかの恐惶(きょうこう)、愛の神、
生の呼び声、行為の歌に駆り立てられるや、
緑の美神(ミューズ)と正義の神は顕れて
そが厳めしき制縛もて彼を引裂くのであった!

絶えず絶えず壮観と、静謐(せいひつ)に渇する彼は、
かの執念の姉妹(あねいもと)には見棄てられ、
やさしさ籠めて愚痴を呟き、巧者にも
花咲く自然に血の出る額を彼は与えるのであった。

だが冷厳の錬金術、神学的な研鑚は
傷付いた彼、この倨傲なる学徒には不向きであった。
狂暴な孤独はかくて彼の上をのそりのそりと歩き廻った。
かかる時、まこと爽かに、いつかは彼も験(な)めるべき

死の忌わしさの影だになく、真理の夜々の空にみる
かの夢とかの壮麗な逍遥は、彼の想いに現れて、
その魂に病む四肢に、呼び覚まされるは
神秘な死、それよやさしき妹(いも)なるよ!

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ひとくちメモ

「やさしい姉妹」Les Sœurs de charitéは
「ジャンヌ・マリイの手」が書かれてから
そう遠くはない日に作られた詩ですが
そのことに意味を見出そうとしても
無駄なことかもしれません。

「ジャンヌ・マリイの手」で歌った女性闘士へのオマージュが
「やさしい姉妹」で消滅したとしても
その意味を探ったからといって
「やさしい姉妹」を
上手に読む手掛かりがつかめるものではないはずですから。

中原中也訳の「やさしい姉妹」で
まず目に見える形の特徴といえば
文語体七五調(五七調)への志向です。

冒頭行こそ
4―8(4-4)―5―4と決めていませんが
第2行は
7―5―5、
第3行は
7―5―7、
第4行は
7―5―5―7―5ときっちり決めています。

以下同様に
字余り、字足らず、破調を含みながら
このやや長い詩を最終行まで
古典的音数律五七で貫いています。

若者、その眼は輝き、その皮膚は褐色(かちいろ)、
裸かにしてもみまほしきその体躯(からだ)
月の下にて崇めらる、ペルシャの国の、
或る知られざる神の持つ、銅(あかがね)に縁(ふち)どられたる額して、

この若者、その眼はかがやき、皮膚は褐色、
裸にしてみたいほどの身体、
月下に崇拝されるペルシャ国の
ある知られざる神の、赤銅に縁どられた額、

――どうやら、若い男の物語がはじまりますが
いきなり、「裸にしてみたいほどの身体」と
いかにも、近くで、その男の身体を眺めたことのあるような口ぶりです。

いったい
この若者は何者でしょうか――。

ひとくちメモ その2

「やさしい姉妹」Les Sœurs de charitéは
ランボーの修辞学コースの担任ジョルジュ・イザンバールの
友人であり詩人であるポール・デメニー(ドメニーと訳すこともあります)の
結婚と関連づけて語られることが定例のようです。

ある一つの詩が
ある解釈を試みられる場合に
その詩が作られた背景が探られて
詩人が営んでいた実生活との関係が注目され
実生活と作品の因果律の中で
詩が読まれるのは普通によくあることです。

よくあること、というより
ほとんどの詩という詩、
作品という作品は
詩の外部から、作品の外部から
詩の中へ、作品の中へという経路
またはその逆の経路をたどって
読まれているといっても過言ではありません。

詩の中へいきなり入っていくことが
階段を何段か飛ばして
駆け上がっていくような無理があるなら
飛ばしてしまっては危ないことになる階段を
一段一段上っていったほうが
詩の中に入りやすいというようなことでしょうか。

「やさしい姉妹」は
デメニーが1971年3月に結婚したことに触れた
ランボーのデメニー宛の手紙が「一つの階段」になり
作品の中と外がつながり
解釈の手掛かりとなっています。

この詩の若者とは
ポール・デメニーを指示しているのですが
だからといって
若者が実生活上のデメニーそのものであるとは言えないところに
詩は成り立っていることをも見過ごせません。
若者=デメニーのことを歌いながら
若者にはランボー自身が投影されていないとも限らないのです。

このようにして
この詩の入り口に立ってみますと……。

この若者、その眼はかがやき、皮膚は褐色、
裸にしてみたいほどの身体、
月下に崇拝されるペルシャ国の
ある知られざる神の、赤銅に縁どられた額、

剽悍だが、女を知らず、ものごとを悲観するやさしさがあり
自分の人並み優れた好みに誇りをもっているのは
若々しい海か、ダイアモンドの地層の上に
キラキラ輝いている真夏の夜の涙か

この若者、この世の醜悪さを前に
心底ぞっとして、ひどく苛立ち
癒すことのできない傷を負って以来
やさしい妹(いも)=恋人でもあったらいいなあと、思ひはじめた……のです。

ひとくちメモ その3

「やさしい姉妹」Les Sœurs de charitéは
ある若者が、やさしい女、妻にしたい女をほしくなるという「起」にはじまり
だが、待てよ、といった調子の「承」へと進みます。

とはいうものの、女よ、臓腑のかたまり、憐憫の情を持つものよ
お前は、女であるからといって、私のいうやさしい恋人ではないのだ!
黒い眸(ひとみ)と眼(まなこ)、茶色っぽい影の眠る腹を持たないのだし、
軽やかな指、ふくよかな胸も持っていないのであれば。

目を覚ます術のない、大きな眸を持つ盲目の女よ、
私のどのような抱擁もついにお前には訝しいだけ、
私たちにつきまとうのは何時でもお前、乳房を持つもの、
私たちはお前に口づけする、穏やかに人を魅了するパッションよ。

お前の憎しみ、お前の失神、お前の絶望を
つまり、かつて傷められたあの獣性を、
月々に流される女の血の過剰のように
お前は私に報いるのだ、おお、お前、悪意のない夜よ。

どうやら、女というものは、
全面的には受け入れられるものではないと
厄介扱いする語り手=詩人の思いが表明されます。
そして、後半部(「転」と「結」)に入っていきます。

ひとたび女が、あの恐惶、愛の神、
生の呼び声、行為の歌に駆り立てられるとき、
緑のミューズと正義の神は現われて
その厳めしい制縛で、彼を引き裂くのだった!

絶えず、壮観と、静謐に渇望している彼は
あの執念の姉妹には見捨てられ、
やさしさを込めて愚痴をこぼし、巧者にも
花の咲く自然に、血の出る額を与えるのだった。

このあたりが、「転」の部分ですが
中原中也の訳は逐語的で
噛み砕かれていません。
無闇に意訳に走らないゆえの効果が
意図されているのかもしれません。

ランボーの難解を
ランボーのままにしておこう、という企み。

だが、冷厳とした錬金術、神学的な研鑽は
傷ついた彼、この傲慢な男には向いていなかった。
狂暴な孤独は、このようにして、彼の上をのそりのそりと歩き回った。
こうした時、実に爽やかなことに、いつかは彼も味わうことになる

死の忌まわしさの影さえなく、真理の夜々の空にみる
あの、夢とかの壮麗な逍遥は、彼の思いの中に現われて、
その魂によって病んだ四肢に、呼び覚まされるのは
神秘な死、それこそ、やさしい妹なのだよ!

最終行の、神秘な死――
それこそが、やさしい妹=妻の正体というものなのだ

この、
なんという、落ち。
なんという、「結」。

この1行のために
この詩は歌われたような、急降下。

いや
急上昇!

そして、姉妹とは、何?

謎は残されたままです。


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