虱捜す女

嬰児の額が、赤い憤気(むずき)に充ちて来て、
なんとなく、夢の真白の群がりを乞うているとき、
美しい二人の処女(おとめ)は、その臥床辺(ふしどべ)に現れる、
細指の、その爪は白銀の色をしている。

花々の乱れに青い風あたる大きな窓辺に、
二人はその子を坐らせる、そして
露滴(しず)くふさふさのその子の髪に
無気味なほども美しい細い指をばさまよわす。

さて子供(かれ)は聴く気ずかわしげな薔薇色のしめやかな蜜の匂いの
するような二人の息(いき)が、うたうのを、
唇にうかぶ唾液か接唇(くちづけ)を求める慾か
ともすればそのうたは杜切れたりする。

子供(かれ)は感じる処女(おとめ)らの黒い睫毛(まつげ)がにおやかな雰気(けはい)の中で
まばたくを、また敏捷(すばしこ)いやさ指が、
鈍色(にびいろ)の懶怠(たゆみ)の裡(うち)に、あでやかな爪の間で
虱を潰す音を聞く。

たちまちに懶怠(たゆみ)の酒は子供の脳にのぼりくる、
有頂天になりもやせんハモニカの溜息か。
子供は感ずる、ゆるやかな愛撫につれて、
絶え間なく泣きたい気持が絶え間なく消長するのを。

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ひとくちメモ

「虱捜す女」Les Cherecheuses de poux は
ベルレーヌの「呪われた詩人たち」に引用されたテキストだけが残る作品。

大正13年に鈴木信太郎が上梓した
「近代仏蘭西象徴詩抄」(春陽堂)に
「少年時」「花」とともに収録されたのを
中原中也は大正14年末に
この「少年時」を筆写、
同時に
上田敏訳の「酔ひどれ船」も筆写し、
二つの詩をファイルしていたことが分かっています。

ランボーを知って間もないころのことで
「虱捜す女」を読んだのも
富永太郎から聞かされていない限り初めてということになる詩を
ほぼ10年後に翻訳したことになります。

第1次形態として
①「ランボオ詩抄」の草稿、昭和10年11月~12月制作(推定)、
②「ランボオ詩抄」昭和10年12月~同11年6月制作(推定)、
第2次形態として
「ランボオ詩集」昭和11年6月~8月28日制作(推定)があります。

中原中也は
ベルレーヌの「呪われた詩人たち」の中の「アルチュール・ランボー」を
昭和4年末から5年初めの間と
昭和7年ごろと推定される時期のと2回にわたって
翻訳していますから
この中に引用されている「虱捜す女」を訳した可能性もあります。

ベルレーヌの著作で紹介されていたからか
日本語への翻訳は早い時期からあり

①上田敏訳「虱とるひと」(明治42年)
②山村暮鳥訳「虱取り」(大正3年)
③鈴木信太郎訳「虱を捜す女」(大正13年)
④三好達治訳「虱を探す二人の女」(昭和5年)
⑤西条八十訳「虱をとる女たち」(昭和5年)
――と5人による同時代訳が存在します。
(「新編中原中也全集 第3巻・翻訳・解題篇」より)

シャルルヴィル高等中学校時代のランボーは
2度の「家出」を試みていますが
修辞学級の担当教官イザンバールの
帰省先ドゥエのジャンドル家にこの時庇護され
家人の娘たちにもてなされた体験が下敷になって
この詩が作られたという研究が定説になっています。

とすれば
1971年の制作ということになります。

好んで放浪したランボーは
ろくに食事も取らず
粗末な塒(ねぐら)で夜を明かしたこともしばしばあり
虱は珍しいものではなかったようです。

しかし
ボワイヤンの詩論からすれば
経験したか否かということを超えて
小さな出来事を題材にして
幻像が拡大され
拡大された幻像が詩語化されたということも考えられます。

中原中也の訳は
そのあたりの呼吸をグイっと掴まえて
言葉が立っています。
強度があります。

一字一句に
魂がこもっているのですが
そう言ってしまえば
たやすいことのようで断然そうでない
命の懸かった仕事の結果であったことは
くれぐれも見失ってはなりません。

ひとくちメモ その2

「虱捜す女」Les Cherecheuses de poux は
シラミを探してはつぶしてくれる
残酷でやさしい二人の女性を歌う
一見、モチーフの奇抜さに目を奪われるだけで
読み流してしまいそうな詩ですが
読めば読むほどに味わいが出てきて
不思議な魅力をもつことにやがて気づかされるような詩です。

みどり児の額が、赤味を帯びてきて
(シラミに食われると、ぽちぽちの湿疹が滲むように出てくるのです)
まだぼんやりとしていて、夢の中の白っぽい世界に漂っているような時に
美しい二人の乙女が、ベッドのそばに現れる、
細い指の爪は白銀の色だ。

夢か現か
目覚めてはいても
まだ夢の続きにあるような
まどろみのひとときにある
嬰児はランボーの分身

花々が乱れ咲き、青い風が吹き渡ってくる大きな窓辺に
二人はみどり児を座らせる、そして
露で濡れたふさふさの、その児の髪に
ぞくぞくするような美しいその細い指をさまよわす。

そうして彼は聴く、気遣わしげなバラ色の、しめやかな匂いの
(ハアハアと乙女らの呼吸は、バラの花のような、しめやかな香りの)
するような二人の息が、歌うのを、
唇に浮かぶのは唾液なのか、キスを求める兆候なのか
ともすれば、その歌は途切れてしまう。

彼は感じる、乙女らの黒い睫毛がにおやかな空気の中で
瞬くのを、そしてすばしこい指が、
にび色の気だるさの中に、あでやかな爪の間で
シラミをぷちぷち潰す音を聴く。

乙女らの
睫毛が瞬き
におい立つ空気は
気だるく
あでやかな爪が
つぶすシラミ

たちまち、気だるさが酒のように子供の脳髄にのぼってくる
有頂天になってしまいそうなハーモニカの溜め息か。
子供は感じている、乙女らのゆるやかな愛撫につれて
絶え間なく、泣いてしまいたい気持ちが湧き上がりまた消えてゆくのを。

フロイドを呼び出したくなるような
得体の知れない、
見覚えのあるようでもある感覚――。

参考書にすがらずに
なにものにも頼らずに
この感じを
何度も何度も
読んでみたい。

中原中也は
まっすぐに
詩の核心へ
突っ込んでいきます。


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