母 音

Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは赤、母音たち、
おまえたちの穏密な誕生をいつの日か私は語ろう。
A、眩ゆいような蠅たちの毛むくじゃらの黒い胸衣(むなぎ)は
むごたらしい悪臭の周囲を飛びまわる、暗い入江。

E、蒸気や天幕(テント)のはたためき、誇りかに
槍の形をした氷塊、真白の諸王、繖形花顫動(さんけいかせんどう)、
I、緋色の布、飛散(とびち)った血、怒りやまた
熱烈な悔悛に於けるみごとな笑い。

U、循環期、鮮緑の海の聖なる身慄い、
動物散在する牧養地の静けさ、錬金術が
学者の額に刻み付けた皺の静けさ。

O、至上な喇叭(らっぱ)の異様にも突裂(つんざ)く叫び、
人の世と天使の世界を貫く沈黙。
ーーその目紫の光を放つ、物の終末!

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ひとくちメモ

「母音」Voyellesは
中原中也訳「ランボオ詩集」の
18番目に配置された作品です。
当然ながら
原典とした第2次ベリション版の配列と同じです。

いよいよ
「初期詩篇」と分類される詩群の
終末部にさしかかりました。

この詩は、
ポール・ベルレーヌの「呪われた詩人たち」の
「アルチュール・ランボオ」をはじめ、
アーサー・シモンズの「象徴主義の文学運動」や、
辰野隆の「信天翁の眼玉」(白水社、大正11年)などで取り上げられていますから
ランボーの作品の中でも
内外でいちはやく有名になり
「代表作の一つ」ということになっています。
(※信天翁は「あほうどり」と読みます。編者。)

岩野泡鳴訳のシモンズ「表徴派の文学運動」(新潮社、大正2年)は
小林秀雄、富永太郎、河上徹太郎ら
中原中也近辺の詩人・文学者のみならず
フランス文学に関心を持つ学生や一般人まで
圧倒的な浸透力で広がっていましたし
東京帝大仏文科の教官・辰野隆や
辰野より少し後に同じ仏文科の教官となった鈴木信太郎が
教室を埋めた満員の学生に向かって
得意気にランボーの話を聞かせていた光景が浮かんできます。

中原中也も
この学生に混じって辰野(や鈴木?)の授業に聞き入っていたことが知られています。

ネクタイを締めた中原中也が
猛者(もさ)や学生服の中で
熱心に耳を傾けていたのを見たことがあると
だれだかがどこかで書いているのですが
いまそれが見つからないので
代わりに
辰野隆が登場する中原中也の日記と書簡を読んでおくことにします。

まず、日記です。

昭和11年(1936年)7月12日

 朝十時頃辰野先生を訪ねたがゴルフに行つてゐて留守。高原を訪ね、一緒に河上
を訪ねたが、これもゴルフ。それより熊岡を訪ね、夜十時半までゐる。お母さんが出て
来て、息子が果して文筆で立てるやどうかと心配そうに云ふから、俺としたことが甚だ
正直に答へたら結局俺を馬鹿にしはじめた。
熊岡にしたつて同じだ。「自分はニセモノではあるまいか」なぞと弱音を吹きながら、
而も何か俺より偉い気がするのだ。凡ゆる無能の青年がやることは次の形式にまと
めることが出来る。
一、 俺は文学をやらう。
二、 然し俺には出来ないかしら?
三、 ――文学なんて大したものではない!……
そこで文学をやつてゐる奴を見ると偉いやうな馬鹿なやうな気がして来る。傲慢な
のだか謙遜なのだか分からない人間が出来る。

はじめの所に名前が出てくるだけですが
この日の日記の全文です。

次に、書簡は2件あります。
まず、昭和3年8月7日付け、小林佐規子宛の封書。

表 市外中野町谷戸二四〇五 文化村内 小林佐規子様
裏 冲也

 帰つてゐます。
辰野から小林へ貸した本を僕に持つて来てくれと頼まれたから、大学の図書館の本
と、辰の印のある本のうち、上にチヤリチヤリ紙をかぶせた本だの厚い本だの、なる
べく上等さうな本を五冊でも十冊でも持って来て下さい。早い方が好い。午後一時迄
なら毎日ゐます。
僕は辰野に請合つたのだから、持参する本を忘れないやうに。
七日          冲
佐規子様

もう一つは
昭和7年(1932年)2月5日付け、安原喜弘宛 葉書(速達)

 昨日は留守をして失敬しました
明土曜夕刻(七時半頃)伺ひます
(今夜は高森と一緒に辰野さんの所へ出掛ける約束です。もしよろしかつたら渋谷
駅に八時に来て下されば、辰野の所へ行きませう。一時間くらゐゐるつもりです。)
怱々

以上は
「新編中原中也全集 第5巻 日記・書簡篇」からの引用です。

早いのが昭和3年、
遅いのが昭和11年ですから
東京に出て来てすぐに
中原中也は辰野隆(たつの・ゆたか)と親しくなり
晩年に至るまでその関係を継続していたことが想像できます。
はじめに仲立ちしたのは、小林秀雄でしたか
案外、そうとは限らないかもしれず
断言はできません。

ランボーや
ほかのフランスの詩人や
文化情勢全般についても
中原中也は
辰野隆から多くの情報を得ていたことがわかります。

ひとくちメモ その2

「母音」Voyellesは

冒頭連の第2行に

おまへたちの穏密な誕生をいつの日か私は語らう。

――とあるように
フランス語でアウイユオと発音する母音の
誕生の秘密を明かそう、という宣言ではじまるソネットです。

無論、学問的な解答ではありません
詩人ランボーの
いわば「錬金術」の種明かしみたいなものです。
そう考えたほうが気が楽になります。

多くの読みがこの詩についてなされ
おびただしい論文が発表されてきた歴史をもつものですが
それらはあまりに膨大といってよく
現在もなお新しい読みが公表されたりしますから
かえって詩が「学問」の中に閉ざされるきらいがあり
詩の楽しみがかすんでしまいがちなのです。

アー(A)は――黒、

光る蝿で毛むくじゃらの胸部
むごたらしい悪臭のめぐりに跳び廻る、
暗き入海

ウー(E)は――白、

気鬱と陣営の稚淳、
投げられし
誇りかの氷塊、
真白の王、
繖形花の顫へ。

イー(I)は――緋色、

喀かれし血、
美しき脣々の笑ひ、
怒りの裡、
悔悛の熱意の裡になされたる。

ユー(U)は――緑、

天の循環、
蒼寒い海の
はしけやし神々しさ、
獣ら散在せる
牧場の平和、
錬金道士が真摯なる大きい額に刻んだ
皺の平和。

オー(O)は――青、

擘(つんざ)く音の
至上の軍用喇叭、
人界と天界を横ぎる沈黙(しじま)、
菫と閃く天使の眸

第1次形態を分解してみると
このようなことになります。
これはベルレーヌの「呪われた詩人たち」の中の
「アルテュル・ランボオ」に引用されているものを
中原中也が昭和7年に翻訳を試み
一通り完成させたものですが
決定稿ではありません。

第2次形態は
「ランボオ詩抄」のために
昭和10年末から11年6月までの間に
作られたものと推定されていますが
「ランボオ詩集」のための第3次形態とともに
第1次形態とは
見違えるような変更が加えられました。

第3次形態を
分解してみると――

アー(A)は――黒、

眩いやうな蝿たちの
毛むくじやらの黒い胸衣(むなぎ)は
むごたらしい悪臭の周囲を飛びまはる、
暗い入江。

ウー(E)は――白、

蒸気や天幕(テント)のはたゝめき、
誇りかに槍の形をした氷塊、
真白の諸王、
繖形花顫動、

イー(I)は――赤、

緋色の布、
飛散(とばち)つた血、
怒りやまた
熱烈な悔悛に於けるみごとな笑ひ。

ユー(U)は――緑、

循環期、
鮮緑の海の聖なる身慄ひ、
動物散在する
牧養地の静けさ、
錬金術が学者の額に刻み付けた
皺の静けさ。

オー(O)は――青、

至上な喇叭らつぱの
異様にも突裂(つんざ)く叫び、
人の世と天使の世界を貫く沈黙。
その目
紫の光を放つ、
物の終末!

若干、すっきりした感じです。
読みやすくなりました。
これ以上すっきりさせようとすると
「虚勢された猫」みたいな
腑抜けた感じになりがちですから
ここで止めるのが
中原中也の訳です。

ひとくちメモ その3

中原中也訳の「母音」Voyellesの第1次形態は
ベルレーヌの「呪われた詩人たち」の中の
「アルテュル・ランボオ」に引用されているものを
昭和7年に中也が翻訳を試みたものですが
ベルレーヌは
この詩「母音」をどんな考えで引用したのか?
――という疑問が涌きます。

 この疑問の答えは、「母音」が引用される前に
ベルレーヌが次のように書いていることで明らかです。
中原中也訳で一度読みましたが
ここで再び詳しく見ておきます。

ランボオの作品は、その極度の青春時、1869、70、71年を終るに当つては、もはや沢山であつて、敬すべき一巻の書を成してゐた。

それは概して短い詩を含む書である、十四行詩、八行詩、四、五乃至六行を一節とする詩。

彼は決して平板な韻は踏まなかつた。

しつかりした構へ、時には凝つてさへゐる詩。

気儘な句読は稀であり、句の跨り一層稀である。

語の選択は何時も粋で、趣向に於ては偶々学者ぶる。

語法は判然してゐて、観念が濃くなり、感覚が深まる時にも猶明快である。加之讃ふべきその韻律。

次の十四行詩こそそれらのことを証明しよう。

(「新編中原中也全集 第3巻 翻訳」より。改行・行空きを加えてあります。編者。)

 ◇

以上が書かれた後に
「次の十四行詩」として
「母音」が引用されるのです。

「母音」は、典型的なソネットです。
4-4-3-3の14行詩。
その約束事に則(のっと)った詩であるということは
まず念頭に入れておきたいことです。

その当たり前のことを
ベルレーヌも指摘しています。

概して短い詩。
十四行詩。
韻を踏む、ただし、平板な韻ではない。
しっかりした構え、時には凝(こ)ってさえいる。
気儘(きまま)な句読は稀であり、句の跨(またが)り一層稀である。

このあたりまで
ソネットの特徴と言ってもおかしくはないものでしょう。

語の選択は何時でも粋(いき)で、
趣向に於ては偶々(たまたま)学者ぶる。

ここら辺に
ランボーの詩の特徴はありそうです。
言葉の選択が粋=「天才的」で
時々、学者ぶっている。
ランボーの博識ぶりをやや皮肉っている感じ。

さらに

語法は判然してゐて、
観念が濃くなり、
感覚が深まる時にも猶(なお)明快である。
加之(のみならず)讃(たと)ふべきその韻律。

ここら辺も
ランボー独特のものです。

最後の「韻律」は
メロディーほどの意味でしょうか。
リズムといったほうがよいでしょうか。
詩の流れ、音感といったものが抜群である、とベルレーヌは讃えるのです。

ソネットの約束事を
きちんと踏まえたうえで
ランボー流を展開している、というのが
ベルレーヌの紹介です。

基礎ができた上に
応用されている、ということを言っています。

この応用の部分で
「母音」は
多様な解釈を誘うことになります。

ひとくちメモ その4

アルチュール・ランボーを
いちはやく世界に紹介したもののうち
英語で書かれた著作が
アーサー・シモンズの「象徴主義の文学運動」でした。
(Arthur Symons:The symbolist movement in literature)
初版は1899年、ロンドンのWilliam Heinemann社。

日本では
岩野泡鳴の訳が「表徴派の文学運動」(新潮社)として
大正2年(1913年)に発行される以前も以後も
シモンズは多くの文学者、詩人らによって参照されましたが
この泡鳴訳で
およそ10年遅れながらも
ランボーの存在が学究の徒のみならず
一般読者へも伝えられ
フランス象徴詩全般が
広く世の中へ知られることになりました。
泡鳴の人気は
大変なものだったのです。

岩野泡鳴訳の「表徴派の文学運動」は
現在、読もうとしてもなかなか読めないので
比較的最近になって翻訳された
樋口覚「象徴主義の文学運動」(昭和53年、国文社)から
ランボーに関する記述を拾っておくことにします。

そうすると
ここにも「母音」は
「地獄の季節」の中の「言葉の錬金術」のくだりの案内とともに
引用されている場面にぶつかるのです。

シモンズは

「言葉の錬金術」において彼は、自己の幻覚の分析家になる。彼は書いている。

――と前置きして

俺は母音の色を発明した。(原註1)――Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑。――俺は子音それぞれの形態と運動とを整調した、而も、本音の律動によって、幾時かはあらゆる感覚に通ずる詩的言辞も発明しようとひそかに希う処があったのだ。俺は翻訳を保留した。……素朴な幻覚には慣れていたのだ。何んの遅疑なく俺は見た、工場のある処に回教の寺を、太鼓を教える天使等の学校を。無蓋の四輪馬車は天を織る街道を駆けたし、湖の底にはサロンが覗いたし、様々な不可思議。ヴォドヴィルの一外題は、様々の吃驚を目前にうち立てた。而も俺は、俺の魔法の詭弁を、言葉の幻覚によって説明したのだ。この精神の乱脈も、所詮は神聖なものと俺は合点した。
(※この部分は、鈴木信太郎の訳であるとの、樋口覚の注があります。なお、この部分は、現代表記に改めました。編者。)

――と、「地獄の季節」中「錯乱Ⅱ」の
「言葉の錬金術」に関するくだりを引用します。

そして、(原註1)を結末に付して
次のように、解説を加えます。

(原註1) 以下は有名なソネであるが、見られるように、過度にまじめに受けとるべきではないにせよ、単なる冗句ともまた違ったものである。

(※「母音」本文の引用がここにありますが省略。)

この暗号や起源については、最近ではランボオが以前、古い「ABC読本」を見たことによっていると言われている。ランボオの詩とほぼ同じように、その本の中では母音が、Aは黒、E黄、I赤、O青、Uは緑というように色がつけられていたのだ。奇妙なことには、この絵本の小冊子にはどこかランボオの俤がとどめられている。

以上、
樋口覚訳の「象徴主義の文学運動」の
「アルチュール・ランボオ」のさわりだけを紹介しました。
さわりが「母音」に関する読みに集中しているのです。

中原中也は
岩野泡鳴訳でシモンズを読んだのですから
岩野の「クセ」のある訳出を通じて
ランボーに近づいていったことになります。

ポール・ベルレーヌも
アーサー・シモンズも
ランボーを紹介した時
「母音」の全文を引用したということで
この詩は
全世界に「代表作」(の一つ)として伝わっていきました。

ひとくちメモ その5

ランボーの「母音」Voyelleは
ベルレーヌの「呪われた詩人たち」の中の「アルテュール・ランボー」や
アーサー・シモンズの「象徴主義の文学運動」に引用されたために
いちはやく世界中へ知れ渡ったのですが
そのために日本においても
早くから翻訳が盛んに行われました。

中原中也の同時代訳として
①折竹蓼峰訳でラムボウ「母音」が「帝国文学」に明治41年1月、
②岩野泡鳴訳アルチュル・ランボ「Voyelles(母韻)」が
「表徴派の文学運動」(新潮社、大正2年)の中に引用され、
③蒲原有明訳アルチユウル・ランボオ「母音」が
「有明詩集」(アルス、大正11年)に、
④金子光晴訳アルチュール・ランボオ「母音」が
「近代仏蘭西詩集」(紅玉堂、大正14年)に、
⑤大木篤夫訳アルチュゥル・ラムボオ「母音」が
「近代仏蘭西詩集」(アルス、昭和3年)に
――といった具合に発表されています。
(「新編中原中也全集 第3巻 翻訳・解題篇」より)

上田敏の「海潮音」が出版されたのは
明治38年(1905年)で、
「酔ひどれ船」の未定稿が収録された「牧羊神拾遺」は
翌明治39年です。

上田敏や堀口大学の名前は
「母音」に関して
同時代訳には現れませんが
ランボーへ無接触ということではなさそうで
世に現れないまでも
懸命に取り組まれていた節があります。

中原中也訳「母音」は
昭和11年発行の「ランボオ詩抄」に初出しますから
これらの同時代翻訳への遅い参戦ということになります。

ここで
「母音」の翻訳としては最初(最古)の
折竹蓼峰訳が新編全集に掲出されていますから
参考のために見ておきましょう。
当然、同書からの孫引きということになります。

折竹蓼峰は
「おりたけ・りょうほう」と読み
明治17年(1884年)生れ、昭和25年(1950年)没の
翻訳家、フランス語学者です。

母音
折竹蓼峰訳

母音A(ア)黒E(エ)白I(イ)赤U(ウ)緑O(オ)藍――
吾ひと日隠れたる汝(いまし)らが起源を語らむ。
A影の海、悪臭の巷をめぐり
輝くは小紋のそうしょく(かざり)毛に織れるコルセット。

E狭霧(さぎり)の匂、荒妙(あらたへ)の天幕(テント)の真白、
物傲(ものおご)り氷河は高く野には亦傘花(さんか)のゆらぎ。
Iくれなゐ、“かと”吐きし血汐の叫、痛ましの
憤怒に酔(ゑひ)に強ひて浮く朱唇の笑(ゑま)ひ。

Oいと奇しき烈帛(れつぱく)の「菰(ラツパ)」の声か、
「衆生界」亦天界の経(たて)に織りつぐ沈黙か――
閃(きらめ)くは久遠の「眼」オメガの光!

(※ルビは一部省略しました。また、本文中の“かと”は、原作では傍点になっています。編者。)

文語体が目立ち
中原中也の時代が
新しい時代に入っていることを思わせます。

中原中也は
明治生まれ(明治40年、1907年)なのですが
ものごごろついたのは大正時代ですから
明治気質(かたぎ)を残しつつ
大正世代、昭和世代の人です。

その言語感覚は
明らかに
大正デモクラシーをくぐり抜けて
関東大震災を超えて
また第一次世界大戦を経過して
形成されました。

ひとくちメモ その6

ベルレーヌの「呪われた詩人たち」の初版は
1884年にパリで刊行され、
シモンズの「象徴主義の文学運動」の初版は
1899年にロンドンで刊行されました。

ランボーの「母音」Voyelleは
これらポール・ベルレーヌとアーサー・シモンズの著作に紹介されたことで
ものすごいスピードで世界中へ広まっていきます。

「母音」がポピュラーになり
ランボーの代表作のように見なされるのは
このような背景があるからですが
シモンズが「象徴主義の文学運動」で紹介した
ランボーの別の作品――「地獄の季節」の一節との繋がりが
読者を「母音」の謎解きへと導くような「仕掛け」に
いつのまにか乗っかっている、
いつのまにかランボーの作品世界の連鎖に入り込んでいる、
読者がそのようにランボーを初体験するから
伝播のスピードが早かったのかもしれません。

巧まずして仕掛けられた作品の連鎖――。
否! ランボーの思惑通りか。

先に見た「地獄の季節」の
「錯乱Ⅱ」の「言葉の錬金術」の一節を
鈴木信太郎の訳ではなく
小林秀雄の訳でもう少し詳しく読んでおきましょう。

小林秀雄は
「ランボオⅢ」で
「言葉の錬金術」について
いまや古典になった論考を展開しているのですが
その小林秀雄も
いちはやく「地獄の季節」を翻訳しています。

鈴木信太郎の「一番弟子」の位置にあった小林秀雄が
戦後すぐに人文書院版「ランボオ全集」が刊行されたとき
師匠・鈴木信太郎に改訳を薦められましたが
その時は行わず
「小林秀雄全集」の発行にあたって改訳したものが
現在、岩波文庫に収められた「地獄の季節」(1938年第1刷)です。
テキストはラコスト版を使用しています。

「錯乱Ⅱ」は
冒頭に「言葉の錬金術」の小見出しが立てられて――

 聞き給え。この物語も俺の狂気の一つなのだ。
俺は久しい以前から、世にありとある風景が己(おの)れの掌中にあるのが自慢だった。近代の詩や絵の大家らは、俺の眼には馬鹿馬鹿しかった。

俺は愛した、痴人(ちじん)の絵を、欄間の飾りを、芝居の書割(かきわり)、辻芸人の絵びら、看板、絵草紙を。また、時代遅れの文学を、坊主のラテン語、誤字だらけの春本(しゅんぼん)を、俺たち祖先の物語と仙女の小噺(こばなし)、子供らの豆本、古めかしいオペラ、愚にもつかない畳句(ルフラン)や、あどけない呂律(リトム)やを。

以上が、母音に関する記述の前にあるのですが
シモンズは「象徴主義の文学運動」では
この部分を省略していますから
ややわかりにくい展開になっていました。

ランボーは
現在日本でいう「B級品」のような
「ろくでもないもの」を「俺は愛した」と
それらを列挙しているのです。
「愛した」とは「その中で育ってきた」という意味も込められる一方、
そういうものが「好きだった」ということをも表白しているでしょうか。

胡散臭くて
いかがわしくて
怪しくて
下品で
……

B級品が
値千金になる

これらが
錬金術の材料である――と
そんなことを一言もランボーは言っていませんが
そういうことを言うに違いないと予感をさせるくだりです。

そして
母音の話になります。

 俺は母音の色を発明した。――Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑。――俺は子音それぞれの形態と運動とを整調した、しかも、本然の律動によって、幾時(いつ)かはあらゆる感覚に通ずる詩的言辞も発明しようとひそかに希うところがあったのだ。俺は翻訳を保留した。

 最初は試作だった。俺は沈黙を書き、夜を書き、描き出す術もないものを控えた。俺は様々な眩暈(げんうん)を定着した。

(以上の引用には、原作にない改行・行空きを加えてあります。また、漢字は一部、新漢字に改めました。編者。)

このように母音については書かれ
「母音」という詩が書かれた理由が
ランボー自身によって
記されたのですから
「母音」の読者が
「地獄の季節」の読者になることは自然の成り行きです。


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