(お天気の日の海の沖では)

お天気の日の海の沖では
子供が大勢遊んでいます
お天気の日の海をみてると
女が恋しくなって来ます

女が恋しくなるともう浜辺に立ってはいられません
女が恋しくなると人は日蔭に帰って来ます
日蔭に帰って来ると案外又つまらないものです
それで人はまた浜辺に出て行きます

それなのに人は大部分日蔭に暮します
何かしようと毎日々々
人は希望や企画に燃えます

そうして働いた幾年かの後に、
人は死んでゆくんですけど、
死ぬ時思い出すことは、多分はお天気の日の海のことです

(一九三四・一一・二九)


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ひとくちメモ



(お天気の日の海の沖では)は
(海は、お天気の日には)と
同じころに作られ、
どちらも
海をモチーフにした詩ですが

(海は、お天気の日には)のシンプルさはなくなり
スケールが少し大きくなったか小さくなったのか
子供、女、人……と人間が登場し
風景が人の世の賑わいを帯びて
時間にも空間にも
俄然、厚みや奥行きが増します。

海の沖で
大勢の子どもが遊んでいる
という絵には
中也らしい不気味な感じが加わりますが
そう思わせた途端に
お・ん・なです!

この場面転換というか
はぐらかされ感というか
つくりものっぽさというか
急展開というか
なにか別の動きがはじまったなと
思わされたところで

女が恋しくなるともう浜辺には立つてはゐられません
女が恋しくなると人は日蔭に帰つて来ます
日蔭に帰つて来ると案外又つまらないものです
それで人はまた浜辺に出て行きます

――と、ストンと受けるという流れは
起承転結の転
序破急の破
……
弁証法なら反定立か?

第3連、第4連は
「結論じみたものになる中原のクセ」などという
批判がましい読みも生れる
エンディングとなります。

それなのに人は大部分日蔭に暮らします
何かしようと毎日々々
人は希望や企画に燃えます

さうして働いた幾年かの後に、
人は死んでゆくんですけれど、
死ぬ時思い出すことは、多分はお天気の日の海のことです。

(海は、お天気の日には)が
(お天気の日の海の沖では)へと展開し
やがて「思ひ出」が生成される流れは
定立―反定立―止揚
テーゼ―アンチテーゼ―ジンテーゼ
という運動みたいで
そちらのほうへ
関心が行きますが

(お天気の日の海の沖では)というこの作品の内部にも
小さなアウフヘーベンの運動が
見られるようで
そのように読んでもまた面白い詩です。


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