中原中也が訳したランボーの手紙・その2

ランボーが1873年7月4日付けでベルレーヌに宛てた手紙の翻訳も、
「ドラエー宛1873年5月」の手紙と同じ、
「紀元」昭和9年新年小説号(昭和9年1月1日発行)に発表されました。

「紀元」同号には、
ほかに「詩二篇」として、
「汚れっちまった悲しみに……」と「月」が掲載されています。
(「新編中原中也全集」第3巻 翻訳・解題篇)

ランボーが書いた手紙を翻訳する詩人と
「汚れっちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる」や
「今宵月はいよよ愁しく 養父の疑惑に瞳を睜る。」と
歌っていた詩人は同じ詩人だった! と
いまさらながらに驚かざるをえません。
(「汚れっちまった悲しみに……」の初出は、昭和5年4月発行の「白痴群」第6号です。)

この手紙を翻訳した昭和8年末に
詩人は生地・山口県湯田温泉に帰郷していました。
遠縁の上野孝子と見合いし、結婚式をあげ、
12月3日には、東京の住まいを四谷・花園アパートに移すなど
あわただしく過ごす中での仕事でした。

山口滞在中には、11月10日付けで詩友・安原喜弘宛に
「ランボオの書簡とコルビエールの詩を少しと訳しました」などと書き送っています。

「新字・新かな」表記で読みます。
洋数字変換したところもあります。
原作にない行アキを加え、読みやすくしてあります。

 *

ランボー書簡2 ヴェルレーヌ宛

 ブリュッセルなる
ポール・ヴェルレーヌへ
(註。――当時ヴェルレーヌは、ランボオを置きざりにして、ブリュッセルに来たばかりであった。そこに彼は妻君を呼び寄せ、復縁を希望した。)
ロンドンにて、金曜日午後
1873年7月4日

 帰って来い、帰って来い、友よ、唯一人の友よ、帰って来い。僕は君に悪い気持を持ってはいない。こないだ頃悪かったのは、あれは意地づくで冗談をしただけなんだ、なんとも後悔しているよ。帰って来い、すれば何もかも解けるんだ。冗談を本気にとられては、ほんとに堪らん! ここ2日間僕は泣き通しだ。気をよくしてくれ。何も困ったわけはないのだ。帰って来てくれさえすればよいのだ。二人で又当地(ここ)で、元気に辛棒して暮らそう。お願いだよ。君にもその方がいいよ。帰って来い。そうすればまた君の仕事も始まるんだ。我々の口論は根も葉もないものだったんだ。思い出してもゾットするよ。それにしても僕が船を降りるように君に合図した時に、君は何故降りて来なかったんだろう? 2年間一緒に暮らしたのは、こんなことになるためだったとでもいうのか! 君はどうするつもりだ? 君が帰って来たくないのなら僕が君の方へ行ってもいいのか?

さなり過(あやま)てりしは我なり、
さるにても汝(なれ)、我を忘れじ
否よ、汝(なれ)、忘れえすまじ
我、汝(なれ)を忘れ得ざれば。

 ねえ、返事をおくれ。もう一度一緒に暮らすことは出来ないものか。気をよくしてくれ。直ぐに返事をくれ。僕は当地にもう長くはいまい。やさしい気を起こしてくれ。
直ぐに、色よい返事をくれ。
心からなる
Rimbaud.

 直ぐに返事をくれ。僕は来る月曜日の午後以後は、もう当地(ここ)にいることは六ヶ敷い。僕はまだ一文も持ってはおらぬので、郵送も叶わず、君の本と原稿とはベルメルシに委托した。もしもう君が会ってくれぬのなら、僕は海軍にでも陸軍にでも雇われるとしよう。帰って来てくれ、僕は泣き通しなんだ。来いなら来いと言ってくれ、直ぐに行くから、電報で言ってくれ。月曜日の午後には出発しなきゃあならないのだからね。君は何処に行き、どうしようというのだ?

※底本を角川書店「新編中原中也全集」とし、「新字・新かな」で表記しました。また、ルビは原作にあるもののみを( )の中に表示しました。編者。


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