雲った秋

或(あ)る日君は僕を見て嗤(わら)うだろう、
あんまり蒼(あお)い顔しているとて、
十一月の風に吹かれている、無花果(いちじく)の葉かなんかのようだ、
棄てられた犬のようだとて。

まことにそれはそのようであり、
犬よりもみじめであるかも知れぬのであり
僕自身時折はそのように思って
僕自身悲しんだことかも知れない

それなのに君はまた思い出すだろう
僕のいない時、僕のもう地上にいない日に、
あいつあの時あの道のあの箇所で
蒼い顔して、無花果の葉のように風に吹かれて、――冷たい午後だった――

しょんぼりとして、犬のように捨てられていたと。

猫が鳴いていた、みんなが寝静まると、
隣りの空地で、そこの暗がりで、
まことに緊密でゆったりと細い声で、
ゆったりと細い声で闇の中で鳴いていた。

あのようにゆったりと今宵一夜(ひとよ)を
鳴いて明そうというのであれば
さぞや緊密な心を抱いて
猫は生存しているのであろう……

あのように悲しげに憧れに充ちて
今宵ああして鳴いているのであれば
なんだか私の生きているということも
まんざら無意味ではなさそうに思える……

猫は空地の雑草の陰で、
多分は石ころを足に感じ
その冷たさを足に感じ、
霧の降る夜を鳴いていた――

君のそのパイプの、
汚れ方だの焦(こ)げ方だの、
僕はいやほどよく知ってるが、
気味の悪い程鮮明に、僕はそいつを知ってるのだが……

今宵ランプはポトホト燻(かが)り
君と僕との影は床(ゆか)に
或(ある)いは壁にぼんやりと落ち、
遠い電車の音は聞こえる

君のそのパイプの、
汚れ方だの焦げ方だの、
僕は実によく知ってるが、
それが永劫(えいごう)の時間の中では、どういうことになるのかねえ?――

今宵私の命はかがり
君と僕との命はかがり、
僕等の命も煙草のように
どんどん燃えてゆくとしきゃ思えない

まことに印象の鮮明ということ
我等の記臆、謂(い)わば我々の命の足跡が
あんまりまざまざとしているということは
いったいどういうことなのであろうか

今宵ランプはポトホト燻り、
君と僕との影は床に
或いは壁にぼんやりと落ち、
遠い電車の音は聞こえる

どうにも方途がつかない時は
諦めることが男々(おお)しいことになる
ところで方途が絶対につかないと
思われることは、まず皆無

そこで命はポトホトかがり
君と僕との命はかがり
僕等の命も煙草のように
どんどん燃えるとしきゃ思えない

コオロギガ、ナイテ、イマス
シュウシン ラッパガ、ナッテ、イマス
デンシャハ、マダマダ、ウゴイテ、イマス
クサキモ、ネムル、ウシミツドキデス
イイエ、マダデス、ウシミツドキハ
コレカラ、ニジカン、タッテカラデス
ソレデハ、ボーヤハ、マダオキテイテイイデスカ
イイエ、ボーヤハ、ハヤクネルノデス
ネテカラ、ソレカラ、オキテモイイデスカ
アサガキタナラ、オキテイイノデス
アサハ、ドーシテ、コサセルノデスカ
アサハ、アサノホーデ、ヤッテキマス
ドコカラ、ドーシテ、ヤッテクル、ノデスカ
オカオヲ、アラッテ、デテクル、ノデス
ソレハ、アシタノ、コトデスカ
ソレガ、アシタノ、アサノ、コトデス
イマハ、コオロギ、ナイテ、イマスネ
ソレカラ、ラッパモ、ナッテ、イマスネ
デンシャハ、マダマダ、ウゴイテ、イマス
ウシミツドキデハ、マダナイデスネ

オワリ

(一九三五・一〇・五)

※「焦げ方」の「焦」は原文では火へんに焦。

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ひとくちメモ

「曇った秋」の中の「君」について
大岡昇平は

中原からこのように親密に「君」とよびかけられる人間は、小林のほかにいない。

――と記します。

第1節第1連冒頭行をはじめ
同第3連冒頭行
第3節第1連冒頭行のほか
リフレイン連にも
「君」は登場し
「僕」の心に突き刺さる言葉を吐いては
回想の中に現れます。

「君」が小林秀雄であることを
知っていればいるほど
この詩は
なまめかしく
生々しく
肉体をもって生きはじめることになるのですが

知らなければ知らないなりに
「君」と「僕」とは
君がいて僕がいて
僕がいて君がいる
ある種の透明で対等な関係の
僕と君として読むこともできます。

大岡昇平は
中原中也の親友の一人ですし
同時代を生きた文学仲間でありますし
中原中也評伝を通じて
評伝文学というものを確立した文学者でありますから
一般の人や
後世の人が
知りようにもないことを知らしめる
義務のような
使命のようなものがあって
当然でしょうし

この詩を「私小説」のように読み得る
ポジションにありましたから
そこから発信される話題は
すべてが第一次情報であり
当事者情報であり
信頼できる重要な価値を
持ち続けていることは
だれでもが認めていることです。

その大岡が
「君」を小林秀雄と断定しているのです。
(新・旧全集「日記・書簡」解説)

そうすると
詩の冒頭連

或る日君は僕を見て嗤(わら)ふだらう、
あんまり蒼い顔してゐるとて、
十一月の風に吹かれてゐる、無花果(いちじく)の葉かなんかのやうだ、
棄てられた犬のやうだとて。

――は、1925年(大正14年)3月に
詩人と連れ立って上京し
同棲していた長谷川泰子が
11月のある日、
小林秀雄の暮らす家へと
去った事件のことであることがわかります。

それから10年
詩人がこのことを忘れたことはなく
泰子を歌った詩も
たくさん作りましたし
正面から歌わなくとも
詩の一節に登場させることもしばしばありました。

「曇つた秋」は
「君」が小林秀雄のことであるなら
泰子のことをも同時に歌い
「僕」も登場する
「奇怪な三角関係」(小林秀雄)の
1935年における
再現ということになります。


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