山の上には雲が流れていた
あの山の上で、お弁当を食ったこともある……
女の子なぞというものは
由来桜の花弁(はなびら)のように、
欣(よろこん)んで散りゆくものだ

近い過去も遠いい過去もおんなじこった
近い過去はあんまりまざまざ顕現(けんげん)するし
遠いい過去はあんまりもう手が届かない

山の上に寝て、空を見るのも
此処(ここ)にいて、あの山をみるのも
所詮(しょせん)は同じ、動くな動くな

ああ、枯草を背に敷いて
やんわりぬくもっていることは
空の青が、少しく冷たくみえることは
煙草を喫うなぞということは
世界的幸福である


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ひとくちメモ

「別離」(十一月十三日)「初恋集」(十年一月十一日)「雲」などの感傷詩では、幼年時のはかない恋情に意味がつけられ、

――と、大岡昇平は、
この3作品を同列に評しています。
感傷詩、というレッテルも貼っています。

「雲」は、批判的意志を含めて読めば
確かに、感傷詩といえますが
詩人は、恋愛詩のつもりで
書きました。

「草稿詩篇」(1933年~1936年)の
「夜半の嵐」の次に配置されています。

喀痰(かくたん)すれば唇(くち)寒く
また床(とこ)に入り耳にきく
夜半の嵐の、かなしさよ……
それ、死の期(とき)もかからまし

――と、「夜半の嵐」で歌ってから、
それほど時間はかかっていないはずの制作です。

山の上を雲が流れてゆくのを
ここ=平地から眺める詩人は
あそこで、お弁当を食べたことを思い出し、
一緒にいた女の子のその後を考え、

女性というものは
桜の花びらが
喜んで散っていくように
結婚していくものなんだ……

遠い過去も近い過去も
遠ければ遠いで手が届かないし
近ければ近いであまりに鮮やかであるし
同じことだ……

山の上で空を見るのも
ここであの山を見るのも
同じことだから
動かないでいいんだ
動くな動くな
これでいいんだ

枯れ草の上に寝て
やわらかなぬくもりを感じながら
空の青の、冷たく透き通ったのを見て
煙草を吸うなどができるということは
世界的幸福というもんだ
などと考えをめぐらします。

痰のからむ身体でありながら
煙草を一服しながら
どこかの野原の枯れ草に寝ころび
行く雲の流れを眺め
時には居眠りし……

となると、
詩友、高森文夫を
宮城県東臼杵郡東郷村の山奥に訪ねたときに
撮影された、
有名な写真のことを
思わずにいられませんが、
その時に作られた歌ではありません。

詩人は、
長男・文也の死を予感することはなくとも
自分の死を
意識することがあったのかもしれません。
この詩を、感傷と片付けるには
惜しい。

幸福などというものに
ほど遠かった詩人が
世界的幸福などというのですから
ここには、やはり
悲しみに深さがあります。

「雲」も
「夜半の嵐」と同様に
昭和10年(1935年)後半~同11年(1936年)前半、
と制作日の推定幅を大きくとられた作品。


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