断 片

(人と話が合うも合わぬも
所詮は血液型の問題ですよ)?……

恋人よ! たとえ私がどのように今晩おまえを思っていようと、また、おまえが私をどのように思っていようと、百年の後には思いばかりか、肉体さえもが影をもとどめず、そして、冬の夜(よる)には、やっぱり風が、煙突に咆(ほ)えるだろう……
おまえも私も、その時それを耳にすべくもないのだし……

そう思うと私は淋しくてたまらぬ
そう思うと私は淋しくてたまらぬ

勿論(もちろん)このような思いをすることが平常(いつも)ではないけれど、またこんなことを思ってみたところでどうなるものでもないとは思うけど、時々こうした淋しさは訪れて来て、もうどうしようもなくなるのだ……

(人と話が合うも合わぬも
所詮は血液型の問題ですよ)?……

そう云ってけろけろしている人はしてるもいい……
そう云ってけろけろしている人はしてるもいい……

人と話が合うも合わぬも、所詮は血液型の問題であって、だから合う人と合えばいい合わぬ人とは好加減(いいかげん)にしてればいい、と云ってけろけろ出来ればなんといいこったろう……

恋人よ! 今宵(こよい)煙突に風は咆(ほ)え、
僕は灯影(ほかげ)に坐っています
そして、考えたってしようのないことばかりが考えられて
耳ゴーと鳴って、柚子酸(ゆずす)ッぱいのです

そして、僕の唱える呪文(?)ときたら
笑っちゃ不可(いけ)ない、こんなものです
ラリルレロ、カキクケコ
ラリルレロ、カキクケコ

現にこういっている今から十年の前には、
あの男もいたしあの女もいた
今もう冥土に行ってしまって
その時それを悲しんだその母親も冥土に行った
もう十年にもなるからは
冥土にも相当お馴れであろうと
冗談さえ云いたい程だが
とてもそれはそうはいかぬ
十二年前の恰度(ちょうど)今夜
その男と火鉢を囲んで煙草を吸っていた
その煙草が今夜は私独りで吸っているゴールデンバットで、
ゴールデンバットと私とは猶(なお)存続してるに
あの男だけいないというのだから不思議でたまらぬ
勿論(もちろん)あの男が埋葬されたということは知ってるし
とまれ僕の気は慥(たし)かなんだ
だが、気が慥かということがまた考えようによっては、たまらないくらい悲しいことで
気が慥かでさえなかったならば、尠(すくな)くとも、僕程に気が慥かでさえなかったならば、こうまざまざとあの男をだって今夜此処(ここ)で思い出すわけはないのだし、思い出して、妙な気持(然り、妙な気持、だってもう、悲しい気持なぞということは通り越している)にならないでもすみそうだ

そして、
(人と話が合うも合わぬも
所詮は血液型の問題ですよ)と云って
僕も、万事都合ということだけを念頭に置いて
考えたって益にもならない、こんなことなぞを考えはしないで、尠くも今在るよりは裕福になっていたでもあろうと……


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ひとくちメモ

回想は
まだまだ続けられ
昭和11年(1936年)11月中旬に制作されたと
推定されている「断片」は
10年前と12年前の思い出にふれます。

前半に出てくる「恋人」は
長谷川泰子らしく
後半に出てくる「あの男」は
詩人・富永太郎らしいことが推察できます。

詩作当時も
血液型の研究は進み
一般にも流布していたのでしょうか。
相性判断の格好の材料として
現在のように
週刊誌などで宣伝されていたものなのでしょうか。

詩人の周辺にも
たとえば
銀座のバーあたりには
新しがり屋で
占い好きで
なんでもかんでも血液型で判断するのが好きな人物が
遊び半分
詩人の交友関係を
占ったりした場面がいつかあったのかも知れません。

恋人よ!
と、呼びかける詩句は
「山羊の歌」の「盲目の秋」に

私の聖母!(わたしのサンタマリア!)

があり、
「無題」冒頭に

こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆふべもおまへと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。

などとあるのを
すぐさま連想しますが
「断片」は
さすがに直接話法の生々しさはそがれて
恋人同士のどんな思いも
思いどころか肉体もが
百年後には影も形もなくなっていることを
冷徹に見通す目に重点は移動していますし
それを
血液型の話の枠内に押しとどめようとする
「道化調」さえあります。

この詩は
かつての恋も
百年も経てば
跡形もなく
この冬の夜のように
煙突を吹きつける風が
はげしいのだけが変らずにあり続けるのであり
それを思えば
淋しくてたまらない
どうしようもなく淋しい、
というところに重心があり
恋そのものは遠景に退いているのです。

後半のあの男(富永太郎)の思い出も
12年前のちょうど今ごろ
火鉢を囲んで
ゴールデンバットを盛んに吸っては
談論風発したのに
今はこうして僕は生きのび
僕とゴールデンバットはあり続けているのに
あの男はいない
という不思議さに目は向けられ
やはり遠い過去の景色としてあります。

僕がこうしてあの男とゴールデンバットを吸いながら
あれこれと話したことを
記憶にとどめて思い出すことができるというのは
気持ちがしっかりしているからであって
そうでなければ
こんなにもまざまざとあの男のことを
思い出すこともできないのだから
これはもはや悲しいということを通り越している

通り越して
どんな状態であるか
そこに
詩人が述べたいものが存在しているのですが
それは言ってしまうと
白々しくて
あつ苦しくて
どうにもならなくて
何の役にもたたない
断片みたいなもので
……

そうやすやすと
言えるものではないけれど
いろいろな形で
実は言ってきたものです
そんなことばかりを言わないでいれば
もう少し裕福になっていたかもしれないのに
こりずに何度も何度も
そのことばかりについて言おうとしてきました。


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