夏の夜の博覧会はかなしからずや

夏の夜の、博覧会は、哀しからずや
雨ちょと降りて、やがてもあがりぬ
夏の夜の、博覧会は、哀しからずや

女房買物をなす間、かなしからずや
象の前に余と坊やとはいぬ
二人蹲(しゃが)んでいぬ、かなしからずや、やがて女房きぬ

三人博覧会を出でぬかなしからずや
不忍(しのばず)ノ池の前に立ちぬ、坊や眺めてありぬ

そは坊やの見し、水の中にて最も大なるものなりきかなしからずや、
髪毛風に吹かれつ
見てありぬ、見てありぬ、
それより手を引きて歩きて
広小路に出でぬ、かなしからずや

広小路にて玩具を買いぬ、兎の玩具かなしからずや

その日博覧会入りしばかりの刻(とき)は
なお明るく、昼の明(あかり)ありぬ、

われら三人(みたり)飛行機にのりぬ
例の廻旋する飛行機にのりぬ

飛行機の夕空にめぐれば、
四囲の燈光また夕空にめぐりぬ

夕空は、紺青(こんじょう)の色なりき
燈光は、貝釦(かいボタン)の色なりき

その時よ、坊や見てありぬ
その時よ、めぐる釦を
その時よ、坊やみてありぬ
その時よ、紺青の空!

(一九三六・一二・二四)


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ひとくちメモ

1936年(昭和11年)11月10日
長男の文也が死去しました。

この日の日記に
詩人は
午前九時二十分文也逝去
ひのえ申一白おさん大安翼文空童子
――とだけ記します。

この日より前に日記が記されたのは
11月4日で
坊やの胃は相変わらずわるく、終日むづかる。明日頃はなほるであらう。
――と書いたばかりでした。

12日には
詩人が喪主兼世話役になった葬儀が行われ
日記には寄せられた香典のメモが書かれますが
以後1か月は記述がなく
12月12日に
「文也の一生」の題で
死後初めてになる追悼の記事が
書かれるのです。

昭和九年(1934)八月 春よりの孝子の眼病の大体癒つたによって帰省。
九月末小生一人上京。文也九月中に生れる予定なりしかば、待ってゐた
りしも生れぬので小生一人上京。十月十八日生れたりとの電報をうく。

――と毛筆で書き起こされる
2年前の文也誕生から
その後の成長の過程が
「文也の一生」には
思い出されるままに
ありありと書き綴られて
終わるところを知らない勢いがあるのですが

昭和11年7月末日の
万国博覧会行きの内容を書いている途中で
プツンと打ち切られ
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」と
タイトルのある詩が
書き継がれる形になったのです。

親子3人が博覧会で見たサーカスの思い出を
日記として叙述しているうちに
イメージがふくらんだか
感情が高ぶったか
ほかの理由によるものか
詩の言語として表出する必要に迫られ
一篇の詩の制作に至ったもののようです。

詩人には
詩に置き換えるほかに
かなしみを癒す術はなく
文也死去後1か月の間
僧侶に毎日の読経を依頼し
自分は般若心経をそらんじていました。

「文也の一生」の終わりの部分を
読んでおきましょう。
全体の6分の1ほどに相当するでしょうか。

春暖き日坊やと二人で小沢を番衆会館に訪ね、金魚を買ってやる。同じ頃動物園にゆき、入園した時森にとんできた烏を坊や「ニヤーニヤー」と呼ぶ。大きい象はなんとも分らぬらしく子供の象をみて「ニヤーニヤー」といふ。豹をみても鶴をみても「ニヤーニヤー」なり。やはりその頃昭和館にて猛獣狩をみす。一心にみる。六月頃四谷キネマに夕より淳夫君と坊やをつれてゆく。ねむさうなればおせんべいをたべさせながらみる。七月淳夫君他へ下宿す。八月頃靴を買ひに坊やと二人で新宿を歩く。春頃親子三人にて夜店をみしこともありき。八月初め神楽坂に三人にてゆく。七月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる。

上野の夜店をみる。
と書いたところで
「文也の一生」は途切れるように終わります。

「夏の夜の博覧会はかなしからずや」は
日記帳にではなく
原稿用紙に
「文也の一生」と同じ毛筆で書かれました。

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