雨の朝

⦅麦湯(むぎゆ)は麦を、よく焦(こ)がした方がいいよ。⦆
⦅毎日々々、よく降りますですねえ。⦆
⦅インキはインキを、使ったらあと、栓(せん)をしとかなきゃいけない。⦆
⦅ハイ、皆さん大きい声で、一々(いんいち)が一……⦆
上草履(うわぞうり)は冷え、
バケツは雀の声を追想し、
雨は沛然(はいぜん)と降っている。
⦅ハイ、皆さん御一緒に、一二(いんに)が二……⦆
校庭は煙雨(けぶ)っている。
――どうして学校というものはこんなに静かなんだろう?
――家(うち)ではお饅(まん)じゅうが蒸(ふ)かせただろうか?
ああ、今頃もう、家ではお饅じゅうが蒸かせただろうか?

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ひとくちメモ

「雨の朝」は
「ひからびた心」
「春日狂想」に続けて
昭和12年(1937年)4月に制作(推定)された作品。
これも新作書き起こしであり
なんらか長男・文也の死の影響が見られる内容をもちます。

初出は「四季」の
昭和12年6月号(同年5月20日付け発行)で
同誌へのこの年(昭和12年)の
発表は最初のものになりました。

《ハイ、皆さん大きい声で、一々(いんいち)が一(いち)…》

《ハイ、皆さん御一緒に、一二(いんに)が二(に)……》

は「春日狂想」の最終行

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テムポ正しく、握手をしませう

を直ちに連想させますし
二重パーレンの使用も
両作品に共通しています。

「四季」の発行日(納本日)から逆算して
4月制作と推定される作品ですから
このころ詩人は
神奈川県・鎌倉に住みはじめて間もなくのことです。

4月の日記を
めくってみましょう

(4月1日) Jeudi
呉郎と鎌倉見物。江の島へも行く。長谷の観音はバラックの中にあつた。震災でいたんでからまだ修復相叶わぬのである。大仏様は、却々よいなれど、その周囲全く趣きなし。もつと周囲に広い園を要す。江の島は、想像せし通りの所。まことに俗人むきの所なり。

(4月2日) Vendredi
呉郎再び東京に行く。

家賃発送。

「催眠術講義」読了。

「近世変態心理学大観第十巻」(狂人の心理)読了。

夜「沓掛時次郎」(新興キネマ)をみる。「豪快男」をもみる。

トルストイ「芸術とは何ぞや」三分の二ばかり読んでもうあとは読みたくない。然し結論には賛成である。

(4月3日) Samedi
床屋に行く。
小林訪問。
午後岡田訪ねたが留守。
林もるす。
川端はお通夜から帰つて今ねたばかりといふので会はず。帰途深田の奥さんと三〇分だべる。

(4月4日) Dimanche
教会欠席。
キップリング詩集(岩波文庫)読了。

「ケーベル博士随筆集」(岩波文庫)読了。

高原、野田、新顔(しんがほ)の橘谷といふ男と共に来訪。
高原偶々馴れた所をやつてみせる。こいつ勝手な奴也、「いい子」になることばかり常に探してゐる。

発熱就床。

(4月5日) Lundi
就床。熱高し。
田村定雄泊まる。

(4月6日) Mardi
前日に仝じ。
夜十一時の汽車にて田村京都に向ふ。

(4月7日) Mercredi
正午頃漸く下熱。
安さんに手紙。

(4月8日) Jeudi
熱はなけれど、猶安静を要す。
高原に絶交状を書こうかと思ふ。
森田正馬著精神療法講義読了。
Caspard de la nuit. 読了。

(4月9日) Vendredi
就床。
読書。

(4月10日) Samedi
床上げ。
小林の妻君来る。
岡田来訪。

(4月11日) Dimanche
古本屋行。教会行。
関口来訪。
安原来訪。

(4月12日) Lundi
一二日(午後)高原来訪し。少し思う所を披瀝した。よく通じたかどうかは知らず。蓋し、通じたとしても、何れはそれを利害関係の点より観る男ののことだから、ほんとは何も云はず、会はないがいちばんよいのだ。思へば可哀想な文学青年なぞといふものは又横著な他の一面をも持つてゐるものなので、ほんとは同上に値しないのかもしれぬ。
一二日夕刻 海東さんの小父さん来る。金時の人形を坊やに呉れる。
その夜泊まる。

小林夫妻来る。(午前)

(4月13日) Mardi
海東爺と女房とねえやと江の島に赴く。小生病弱の故に留守番なり。独りあつてまことに静か。杉田玄白翁が蘭学事始を通読す。

(4月14日)
一四日。雨降りていやな天気なり。本を売りにゆきしも、古本屋の親爺ゐず。蕪村全集を求めて帰る。

(4月15日) Jeudi
島森に行き、岩波文庫を求む。古本屋にゆき、ブルックハルト伊太利文芸復興、其の他を求む。からこやにてドミノを求む。林屋にて空気銃を求む。空気銃を持つて出て、雨間もなく降りだしたので大岡の下宿へ寄り、うかうかと夜の九時過ぎまで話す。帰つてみると女房心配してゐた。空気銃を持つて出て夕飯にも帰らぬこと故、山の中に倒れゐるかと思ひいたるなり。無理もないことなり。夜思郎突然上京の途立寄る。

(新編中原中也全集第5巻「日記・書簡」より)

以上は
4月15日までの半月分の日記です。
毎日欠かさず
日記をつけていたことがわかります。

「坊や」は
次男・愛雅(よしまさ)のことでしょう。
この15日分の日記に
亡き文也のことは記されていません。

「雨の朝」は
生地・山口の
少年時代の思い出が歌われています。

冒頭の

《麦湯は麦を、よく焦がした方がいいよ。》
《毎日々々、よく降りますですねえ。》
《インキはインキを、使つたらあと、栓〈(せん)〉をしとかなけあいけない。》

は、家族か近辺に暮らしていただれかの言葉で
つられて
学校の授業の風景に
場面は移ります。
……

じっと
古い記憶を呼び覚ましていると
詩人は
その時間の中に入り込んでしまって

――家(うち)ではお饅ぢうが蒸(ふ)かせただらうか?
ああ、今頃もう、家ではお饅ぢうが蒸かせただらうか?

となるのですが
前の行は、少年の時
後の行は、現在

授業中に
母さんや婆やたちが作ってくれている
お饅頭ができただろうかと
楽しい想像をする少年は
その当時を思い出し
今頃お饅頭が蒸し上がっただろうかと
回想する現在の詩人に成り変っています。

いわば
現在の詩人は
少年に同化しているのですが
同じことが

《ハイ、皆さん大きい声で、一々(いんいち)が一(いち)…》

と大きな声で
生徒たちを指導している先生に
詩人が同化しているということがいえます。

いんいちがいち
と九九(掛け算)を暗記する方法を
生徒たちに教える先生の姿は
現在の詩人が
自らに要求する姿でもありました。

九九を暗記するようには
生きることの難問を乗り越えられると
詩人が考えたとは
到底思えませんが
繰り返し繰り返しやってくる
同じ問いに対峙するとき
詩人は
呪文を唱えるかのように
小学校の先生の口調を真似て
苦しみや悲しみの時間を
やり過ごしていたことは
想像のできることです。

それは
「春日狂想」で歌った
詩人の生き方と同様の生き方です。


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