(かつては私も)

かつては私も
何にも後悔したことはなかった
まことにたのもしい自尊(じそん)のある時
人の生命(いのち)は無限であった

けれどもいまは何もかも失った
いと苦しい程多量であった
まことの愛が
いまは自ら疑怪(ぎかい)なくらいくるめく夢で

偶性(ぐうせい)と半端(はんぱ)と木質(もくしつ)の上に
悲しげにボヘミヤンよろしくと
ゆっくりお世辞笑いも出来る

愛するがために
悪弁(あくべん)であった昔よいまはどうなったか
忘れるつもりでお酒を飲みにゆき、帰って来てひざに手を置く。

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ひとくちメモ

(かつては私も)も
前作(秋の日を歩み疲れて)と同じ
下書き稿であり
詩形式もソネットであるという点で
両作品は
連続性を示していますが
(かつては私も)で
注目しておいたほうがよいのは
「処女詩集序」という詩との類似性です。
 
「処女詩集序」は
字義通り、
処女詩集の序のことで
序章とか序曲とかプロローグとか
本文(本節)の前に置かれる前置き(まえがき)に相当します。
 
昭和2〜3年頃に
計画し、編集作業を行った
初めての詩集の「序詩」が
「処女詩集序」とタイトルを付けられて
草稿として残っているのです。
 
その「処女詩集序」の内容と
この(かつては私も)の内容が類似していて
未完の(かつては私も)を作ったあとで
同じモチーフで
「処女詩集序」を作ったものと推測されています。
 
その昔私は
何にも後悔するようなことはなかった
実に頼もしく自分を信頼していたし
生きていることが無限のことに思えていた
 
けれども今は何もかも失ったのです
心苦しくなるほど大量にあった
真実の愛が
今は自分で疑うほどの夢になり
クラクラしている
 
偶然性、半端、木質
こんなものの上で
悲しげにボヘミアンよろしくとばかり
余裕をよそおったお世辞笑いだってできるようになりました
 
本当に愛していたから
ワルばかり言った昔よ
今どうなってしまったのか
忘れるつもりで酒を飲みにいって
帰ってくるなり
膝に両手を置いて
また思い出し
打ちのめされるのです。
 
これを
詩集の序詩とするわけにはいきませんでした。


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