女 よ

女よ、美しいものよ、私の許(もと)にやっておいでよ。
笑いでもせよ、嘆(なげ)きでも、愛らしいものよ。
妙に大人ぶるかと思うと、すぐまた子供になってしまう
女よ、そのくだらない可愛(かわ)いい夢のままに、
私の許にやっておいで。嘆きでも、笑いでもせよ。

どんなに私がおまえを愛すか、
それはおまえにわかりはしない。けれどもだ、
さあ、やっておいでよ、奇麗な無知よ、
おまえにわからぬ私の悲愁(ひしゅう)は、
おまえを愛すに、かえってすばらしいこまやかさとはなるのです。

さて、そのこまやかさが何処(どこ)からくるともしらないおまえは、
欣(よろこ)び甘え、しばらくは、仔猫のようにも戯(じゃ)れるのだが、
やがてもそれに飽(あ)いてしまうと、そのこまやかさのゆえに
却(かえっ)ておまえは憎みだしたり疑い出したり、ついに私に叛(そむ)くようにさえもなるのだ、
おお、忘恩(ぼうおん)なものよ、可愛いいものよ、おお、可愛いいものよ、忘恩なものよ!

(一九二八・一二・一八)

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ひとくちメモ

「女よ」は
詩の末尾に (一九二八・一二・一八)とあるように
昭和3年(1928年)の12月18日に作られました。

中原中也は
この詩を書いた頃
豊多摩郡高井戸町下高井戸に
関口隆克、石田五郎と共同で生活していました。

「女」は
明らかに長谷川泰子のことで
泰子と小林秀雄の暮しが破綻したのは
同年5月でした。
泰子は
「中野町谷戸2405松本方」に住み
9月頃には
松竹の蒲田撮影所に入り
「陸礼子」という名のニューフェースでした。
やや本格的な女優の仕事で生計を立てていました。

大岡昇平は
この頃の泰子と詩人の関係について

時代はトーキーに切り替りかけていたので、その広島訛りが障害となり、伸びなかった。この年の末、前から知っていた山岸光吉と同棲する。ただし例えば郷里から山岸の母親が出て来た場合、中原の下宿に泊りに来るという風に親密な関係は続いている。(旧全集解説「詩Ⅱ」)

と、記しています。

「女よ」は
泰子を歌ったものであることは確かなことですが
泰子そのものであるというより
泰子を通じて普遍化された女を歌った、ということのようで
これが
ヴェルレーヌの「智慧」の
影響を色濃く受けた詩であることが
大岡以来、定説になっています。

大岡は

(略)彼がメッサン版ヴェルレーヌ全集第一巻を買ったのは大正15年5月で、堀口大学訳『ヴェルレーヌ詩抄』が出たのが昭和2年1月である。訳詩集『月下の一群』は大正15年に出ており、象徴派の詩人ではヴェルレーヌが圧倒的に多い。

「女よ」の調子は「智慧」の第一部の五「女たちの美しさ、そのかよわさ、さうして時にはよいこともするが、またどんな悪いことでも出来るその白い手」とかなり似ている。

「君が為にと啜り泣く。やさしき歌にきき入れよ」(十六)は中原の泰子に対する訴えを代弁しているように聞える。
(前掲書、改行を加えてあります。編者)

と書いていますし

河上徹太郎は

初稿ができたのは、はっきりしないが、昭和2、3年頃である。とにかく昭和4年に私が最初の文芸評論「ヴェルレーヌの愛国詩」を書いたのは、この訳を一応完了した時の感動に基いたものだからだ。当時中原中也が人づてに聞いて来て、この訳稿を見せろといふから貸したら、返しに来た時、色々ヴェルレーヌについて感想を述べた揚句、「時に君の訳にはいふにいはれぬまづさがあるね、」といって帰った(ダヴィッド社版「叡智」「序」、新全集第2巻・詩Ⅱ解題篇より孫引きです)

と書いています。

河上は
ヴェルレーヌの翻訳を
早くから手がけ
 
昭和10年に邦訳本「叡智」を芝書店から
昭和22年には同書の改訂版を穂高書店から
昭和31年に決定版をダヴィッド社から刊行しましたが
 
昭和初期の
中原中也とのやりとりを回想した
昭和31年のダヴィッド版の「序」の一部は
河上には辛辣(しんらつ)な批判であったにもかかわらず
鷹揚(おうよう)にこれを受け止めて
ノンシャランとした感じがあるのは
さすが「白痴群」の同志です。

「いふにいはれぬまづさがある」と
指摘された訳詩の一部が
「角川新全集・詩Ⅱ解題篇」に掲載されていますが
いまさらながらに
中也の指摘に軍配があがるのは明白で
いまやむしろ
二人の間のやりとりを想像できるだけで
貴重でかつほほえましくもあります。

「女よ」の最終行
おゝ、忘恩なものよ、可愛いいものよ、おゝ、可愛いいものよ、忘恩なものよ!
が、数々の和訳「叡智」と並べてみたとき
リアルさにおいて
ほかに抜きん出るものがあるのかどうか
中原中也のこの頃の「女」が
飛び抜けて
コンテンポラリーな「日本語」で
女を歌っていることは確かです。

じっくりと味わいたい恋愛詩の名作です。




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