さまざまな人

抑制と、突発の間をいったりきたり、
彼は人にも自分にも甘えているのです。

彼の鼻は、どちらに向いているのか分らない、
真面目のようで、嘲(あざけ)ってるようで。

彼は幼時より変人とされました、
彼が馬鹿だと見られさえしたら天才でしたろうに。

打返した綿のようになごやかな男、
ミレーの絵をみて、涎(よだれ)を垂らしていました。

ソーダ硝子(ガラス)のような眼と唇とを持つ男、
彼が考える時、空をみました。
訪ねてゆくと、よくベンチに腰掛けていました。
落葉が来ると、
足を引込めました。
彼は発狂し、モットオを熱弁し、
死んでゆきました。

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ひとくちメモ

「早大ノート」の中の
1931年制作(推定)の詩篇としては
5番目にあるのが
「さまざまな人」です。

タイトルが付けられている詩篇
ということは、
完成稿に近い作品
と推定が可能です。

2年前に知り合った
彫刻家の高田博厚の渡仏、
東京外国語学校での
フランス語のブラッシュアップ、
青山二郎と交友開始、
千駄ヶ谷への転居、
そして、
9月、弟・恰三の死去……

「さまざまな人」が書かれたのは、
弟・恰三が死去する前で、
秋に入ってからの時期と推定されています。

2行の連が4連続き
最終連だけを7行とした構成ですが、
第1連から第4連へと読み進んで
ああ、
こういう人っているなあ、
と、思い当たることもあれば、

詩人が、
さまざまなタイプの人間を
言葉の厳密な意味で、
捕らえていることに
だんだんと
感嘆し、

他人にも自分にも甘えたヤツ、とか
真面目なようで、人を小馬鹿にしているヤツ、とか
馬鹿と間違われる天才は、ほんとの天才、とか
ミレーの絵に登場するような、穏やかな男、とかと

当たらずとも
遠からずのイメージを
描くことができているな、
と、自分の想像に
満足するのですが……

最終連に辿(たど)りついて、
詩の真髄に
ふれるようなことになり、
感嘆は感動に近いものに変わります

この詩の真髄とは
ズバリ

落葉が来ると、
足を引込めました。

にある!
と、発見するのです。

1連から4連までも、
特別に奇矯(ききょう)でもなく
特別に普通過ぎることもなく、
よく味わえば、
詩の言葉の厳密な、

この詩人にして紡ぐことが可能な
詩的言語ではありましたし、
最終連に入っても
同じような言葉が続いていました……

ソーダ硝子のやうな眼と唇とを持つ男、
彼が考へる時、空をみました。

この2行も
奇矯でもなく普通過ぎるでもなく、

訪ねてゆくと、よくベンチに腰掛けてゐました。

この1行も
奇矯でもなく普通過ぎるでもなく、

落葉が来ると、
足を引込めました。

この2行にぶつかって、
異常な「繊細さ」というか
異常な「鋭さ」というか、に
刺されてしまいます。
グサリ、と。

彼は発狂し、モットオを熱弁し、
死んでゆきました。

という最終の2行の
ドラマは、
この男の、
落ち葉が来ると、
そっと足を引っ込める、という仕草によって
はじめて詩になります。

それにしても
はかなげな感じが、
捕らえられていますよね。

落葉が来ると、
足を引込めました。

 


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