海 景

銀の戦車や銅(あかがね)の戦車、
鋼(はがね)の船首や銀の船首、
泡を打ち、
茨の根株を掘り返す。

曠野の行進、
干潮の巨大な轍(あと)は、
円を描いて東の方へ、
森の柱へ波止場の胴へ、
くりだしている、
波止場の稜は渦巻く光でゴツゴツだ。

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ひとくちメモ

中原中也訳「ランボー詩集」「飾画篇」の
末尾にあるのが「海景」Marineです。
全15篇の最終詩です。

色々と御託を言う前に
この詩を読んでみれば
またも
ランボーの詩に
意表を突かれるという経験を味わうことになることでしょう。

まずは、
詩を読んでみます。
タイトルは
Marineで
中原中也は
「海景」と訳していることを
念頭に入れておきます。

銀(色)の戦車や胴(色)の戦車、
鋼鉄の船首や銀製の船首、
泡を打ち、
茨の根株を掘り返す。

海の景色のはずなのに
なぜ
大きな海が見えずに
浅瀬らしき地形に乗り入れる戦車や船が
泡を打ち砕き
茨を根こそぎにして進んでいくのだろう?

そのような
疑問にとらわれながら
読み進みます。

荒野を戦車、戦艦が行進する、
干潮で干上がった入り江に、巨大な轍の跡がついて、
円弧を描いて東の方へ、
森の柱の部分へ、波止場の胴体部へ、
繰り出している、
波止場の稜線は、陽の光を浴びて、ゴツゴツになっている。

潮が引いた港湾の
荒涼とした風景を
戦車や軍艦が行進する――。

夢なのか現(うつつ)なのか
イリュージョンなのか

普仏戦争の一戦場を
雑誌か何かの印刷物で見た
その記憶の再現なのか――。

言葉の錬金術が
またしても
わずか10行で誘い出す
幻想の世界。

そこには
海でない陸、陸でない海
――ではなく、

海である陸、陸である海
――が存在するばかりで、
そこに陽は燦々と降っています。

この見覚えのあるイメージは
2012年の今日ならば

津波に襲われた街に
乗り上げたまま動かない漁船。
燦々と降り注ぐ陽光。

――に行き着きます。

ひとくちメモ その2

中原中也訳の「海景」Marineは、
なんの変哲もない訳などと通り過ぎては
宝物に気づかずに駆け足で過ぎ去る
慌てた旅のようなもの。

ランボーの原詩の持つであろう
まだ手垢にまみれる前の
原石のかがやきを
そっくり日本語に移し変えている
技ならぬ技に驚かされます。

たとえば、

波止場の稜は渦巻く光でゴツゴツだ。

――という最終行。

はじめ
第1次形態の「翻訳詩ファイル」で

角度はゴツゴツ、光の渦に。

――と訳されていたときから
「光のゴツゴツした感じ」が捉えられていましたが
これを捨てずに
第2次形態でも磨きあげました。

これは
詩心というようなもののみが
捉え得る
言語以前の世界というべきものです。

ここまで書いてきたところで
宇佐美斉の「ランボー全詩集」(ちくま文庫)の脚注にぶつかって
また
卓抜な読みに出会いましたから
それを案内しておきましょう。

「海の光景」と訳出した詩の
短い注にこうあります――

後出の「運動」とともに、自由韻律詩の嚆矢(こうし)と目されてきた。エドゥアール・デュジャルダンは、『自由韻律詩による初期詩人たち』の冒頭に、この詩篇を収めて讃めたたえている。しかし最近の研究では、むしろこうした評価の仕方にはむしろ否定的な見方が強まっている(「運動」の脚注参照)。

作者はここで、海と陸との境界線を除き去ってしまうことによって、美しい幻想的な海辺の光景を、読者の眼の前に浮かびあがらせることに成功している。ベルナールが指摘するように、そこに理智が介入して、分析し、理由づけし、意味づけをする以前の、生まのままの印象が定着されているのだ。

作者はここで、
海と陸との
境界線を除き去ってしまうことによって、
美しい幻想的な海辺の光景を、
読者の眼の前に浮かびあがらせることに成功している。

――と言われている作者とは
ランボーのことですが、
中原中也がこれを読んだら
「俺の読みと一緒だなあ」と
仰天して喜ぶかもしれませんね。

エドゥアール・デュジャルダンとか
ベルナールとか
もちろん
そのような研究者を知るはずもないのですが
中原中也は
自ずとここらあたりの呼吸を
掴んでいたような翻訳をしています。

それは
「幻想的な」という以前の
荒々しい
海ならぬ海で、
どこか「酔ひどれ船」に通じている海でもあります。

中原中也は
そのように感じていたにちがいありません。

ひとくちメモ その3

「海景」Marineの色々な訳を
読み比べてみましょう。

まず
中原中也の同時代訳の
大木篤夫から。

航海

銀の車、銅の車、
鉄の舳(へさき)、銀の舳(へさき)は
突破する、泡だつ波を、
跳ねあげる、茨(いばら)の株を。

曠野の流れと
引潮の数知れぬ車輪の跡は
渦巻きはしる、東に向って、
森の円柱に向って、
その角(かど)が光の旋風にぶッつかる
突堤の胴に向って。

(「近代佛蘭西詩集」より)
※ 新漢字、現代表記に改めました。編者。

堀口大学も
「海景」と訳しています。

海景

銀(しろがね)と銅(あかがね)の戦車群、
鋼(はがね)と銀(しろがね)の舟艇群、
白波を切り
野茨(のいばら)を根こそぎ持ち上げる。

曠野(こうや)の潮流が
引潮の巨大な轍(わだち)が
輪を描(えが)いて、東方へ向い、
森の林立する柱に向い、
角(かど)が光線の渦(うず)になっている
波止場(はとば)の上に立つ柱に向い疾走する。

堀口大学は、

海景 韻文詩から散文詩への過渡の作品。海の風景と野原の景色を交錯させ、二重露出にして作り上げたところに新味がある。

――と語註を付しています。

金子光晴訳は
「海」です。

白銀と、銅の車輪、
鋼鉄と、銀の舳(へさき)は、
泡を打ちあげ、
荊棘(いばら)の根株をあらう。

曠野(こうや)の奔流と、
曳潮(ひきしお)のおもたい轍(わだち)が、
東をむいて、
並ぶ森の柱廊のほうへ
かどが、光の渦巻で衝(つ)きあたる
波止場の胴っぱらにむかって
ゆるやかな彎曲線(わんきょくせん)をえがく。

鈴木信太郎と小林秀雄の共訳で
「海景」。

銀と銅の車が――
鋼(はがね)と銀の船首(へさき)が――
泡をたたき、――
茨(いばら)の根株(ねっこ)を掘り起す。
荒野の潮流と、
引潮の広大な轍(わだち)は、
円を描いて流れ去る、東の方へ、
森の列柱の方へ、――
突堤の胴中の方へ、
その角は光の渦巻きと衝突する。

(「ランボオ全集Ⅱ」人文書院)
※ 新漢字、現代表記に改めました。編者。

粟津則雄訳は「海景」。

海景

しろがねとあかがねの車が――
はがねとしろがねの車が――
水泡を打ち、――
茨の切株を押しあげる。
荒野の潮流が、
引潮の巨大な轍が
輪をえがきながら東へ流れる、
森に立ち並ぶ柱の方へ、――
突堤に立ち並ぶ幹の方へ、
その角は渦巻く光と衝突する。

※訳者註として

田園の風景と海景とを重ねあわせることによってイメージの運動に爆発的な動性を与えるこの手法は、ランボーがしばしば用いているものだ。この自由詩形は、ランボーが定型韻文詩から散文詩へ移る中間的な形態をあらわしている。

――と付されています。

「海景」は
「飾画篇」の最後を飾るだけあって
特別な位置を占めているようであることが
少し見えてきました。

「自由韻律詩」(エドゥアール・デュジャルダン)などという言い方があることは
先に、宇佐美斉の脚注で知りましたが
粟津則雄が「自由詩形」と言っているのも同じことらしい。

どうやら
「海景」は
ランボー詩が
韻文から散文へ移行していく流れの
早い時期の実践例と見られていたが
最近の研究ではそこまで考えなくてよい、という読みも出ているらしい。

いずれであっても
中原中也の時代から
研究は進んで
さまざまな読みが試みられているということが分かります。

「地獄の季節」から「イリュミナシオン」へ、なのか
その逆なのか、
やがては
詩作を放棄してしまうランボーの
節目の作品ということが「海景」について言えそうです。

ひとくちメモ その4

Marineのほかの訳を
もう少し読んでおきます。

最近の訳を読んでおこうということになると
鈴木創士、鈴村和成、宇佐美斉の訳が手近かにあるので
この3人の訳を読むことになりますが……。

まず鈴木創士の訳。
「イリュミナシオン」の中に
めずらしく「海洋図」の題で訳されてあります。

海洋図

銀と銅の戦車――
鋼鉄と銀の舳先が――
泡にぶつかり、――
茨の根株を持ち上げる。
荒地の流れと、
引き潮の巨大な轍が、
輪を描くように、東のほうへ、
森の列柱のほうへ、
埠頭の柱身のほうへと流れ去り、
その角は光の渦と衝突する。

(「ランボー全集」河出文庫)

次に
鈴村和成訳は「航海」。

航海

銀と銅の車が――
鋼鉄と銀の舳先が――
泡をたたき、――
イバラの切り株を掘り起こす。
荒れ地の潮流、
そして返す波の広大な轍が
円を描いて流れてゆく、東のほうへ、
森の支柱のほうへ、――
突堤の柱のほうへ、
そしてその角に衝突する
光の渦巻きが。

(「ランボー全集」みすず書房)

終わりに
宇佐美斉の訳「海の光景」。

海の光景

銀と銅の車と――
鋼(はがね)と銀の舳先(へさき)とが――
水泡(みなわ)を打ち、――
茨の株を持ち上げる。
荒れ地の潮流と、
引き潮の巨大な轍とが
輪を描いて流れる、東のほうへ、
森の列柱のほうへ、――
突堤の杭のほうへ、――
その角にぶつかっているのは渦巻く光だ。

(「ランボー全詩集」ちくま文庫)

時代が進み
研究が進み
翻訳も変化していくのは当たり前ですが
中原中也がランボーの翻訳に取り組みはじめた昭和初期に
ランボー研究をはじめた西条八十が
「海景」について述べていますから
ここで
それを読んでおきましょう――

「海景」では、ランボオは、その幻覚を繰りながら、二重映しのフィルムのように展開させる。これも、ロンドンへの船旅の所産なのであろう。初めて眼前に、青潮を蹴立てて進む彼の脳裡には、たまたま故郷アルデンヌの田野を、《茨の根を掘りおこして》進む馬耕の幻が泛んでくる。――

‘Les chars d’argent et de cuivre—
Les proues d’acier et d’argent—
Battent l’écume,—
Soulèvent les souches des ronces—’
《銀と銅との車――
鋼と銀との舳(へさき)――
泡をうち、――
茨の根を掘りおこす。》

あるいは、
‘Les courants de la lande,
Et les ornières immenses du reflux,
Filent circulairement vers l’est,’
《曠野の潮流と、
退き潮の巨大な轍が、
円を描いて東へ伸びる、》

ここに存分に振り撒かれている海と土、泡沫と茨の根、曠野と潮流、退き潮と車輪の痕、森と突堤など、黒白相反する世界が幻想の中で絡み合い、この対比には、眼前の風景とそれにうちかぶせようとする幻像の構築との闘いが窺われて興趣深い。この手法は、後年のシュールレアリスムの箴(しん)をなすもので、これと同じ傾向を明らかに示すものとして「舞台面」を取り上げねばならない。

(「アルチュール・ランボオ研究」中央公論社)

以上の引用は、
第4部「イリュミナシオン」中の
第2章「実験のメモ」と題する記述の一部ですが
この章は、

詩集「イリュミナシオン」の内容は主として散文詩で、その中にどうやら詩型の残滓をとどめているのは、「海景」(Marine)、「運行」(Mouvement)の2篇に過ぎないというのがブイヤーヌ・ド・ラコストの意見である。

――と書き出される冒頭を持ちますから
大意をつかむことは大してむずかしくはないことでしょう。

「二重映しのフィルムのよう」
「ロンドンへの船旅の所産」
「眼前の風景とそれにうちかぶせようとする幻像の構築との闘い」
「海と土、泡沫と茨の根、曠野と潮流、退き潮と車輪の痕、森と突堤など、黒白相反する世界」
「シュールレアリスムの箴(しん)をなすもの」
――などの語句によって
西条八十の「海景」の読みがおよそ理解できるはずです。

この文が書かれたのは
中原中也が生きていたころではなく
戦後のようですから、
最近のランボー研究に繋がっていく位置にありますが
新しい研究は西条八十以後も
さらに続々と発表されているということは言うに及びません。

ひとくちメモ その5

中原中也訳の「海景」Marineは、
「翻訳詩ファイル」に収集された7篇のうちの一つ
「航海」を第1次形態としますが、
これは昭和4年(1929)~8年(1933)の制作(推定)とされています。

昭和12年9月発行の
「ランボオ詩集」に収められたのが「海景」で
「航海」の第2次形態です。

ここで
第1次形態の「航海」を読んでおきます。
両作の間には
若干の変化がみられるだけなのが興味深いですね。

航海
アルチュール・ランボー

銀と銅(あかがね)の戦車、
鋼(はがね)と銀の船首、
泡を打ち、
茨の根株を掘り返す。

曠野の行進、
干潮の大きい轍、
円を描いて東へ繰り出す、
森の柱へ、
波止場の胴へ、
角度はゴツゴツ、光の渦に。

(「新編中原中也全集」翻訳篇)

さて、「飾画篇」を読み終えるにあたって
「翻訳詩ファイル」に書かれた詩篇のうち
ランボーの詩6篇を
通しで読んでおきましょう。

(彼の女は帰つた)
アルチュール・ランボー

彼の女は帰つた。
何? 永遠だ。
これは行つた海だ
太陽と一緒に。

ブリュッセル
アルチュール・ランボー

七月。レジャン街。

快きジュピター殿につゞける
葉鶏頭の花畑。
――これは常春藤の中でその青さをサハラに配る
君だと私は知つてゐる。

して薔薇と太陽の棺と葛のやうに
茲に囲はれし眼を持つ、
小さな寡婦の檻!……
なんて
鳥の群だ、オ イア イオ、イア イオ!……
穏やかな家、古代の情熱!
ざれごとの四阿屋。
薔薇の木の叢(むら)尽きる所、蔭多きバルコン、
ジュリエットよりははるか下に。

ジュリエットは、アンリエットを呼びかへす、
千の青い悪魔が踊つてゐるかの
果樹園の中でのやうに、山の心に、
忘られない鉄路の駅に。

ギタアの上に、驟雨の楽園に
唱う緑のベンチ、愛蘭土の白よ。
それから粗末な食事場や、
子供と牢屋のおしやべりだ。

私が思ふに官邸馬車の窓は
蝸牛の毒をつくるやうだ、また
太陽にかまはず眠るこの黄楊(つげ)を。
とにまれ
これは大変美しい! 大変! われらとやかくいふべきでない。

――この広場、どよもしなし売買ひなし、
それこそ黙つた芝居だ喜劇だ、
無限の舞台の連り、
私はおまへを解る、私はおまへを無言で讃へる。

彼女は舞妓か?
アルチュール・ランボー

彼女は舞妓か?……最初の青い時間(をり)に
火の花のやうに彼女は崩れるだらう……

甚だしく華かな市(まち)が人を喘がす
晴れやかな広袤の前に!

これは美しい! これは美しい! それにこれは必要だ
――漁婦のために海賊の唄のために、

なほまた最後の仮面が剥がれてのち
聖い海の上の夜の祭のためにも!

幸福
アルチュール・ランボー

おゝ季節、おゝ砦、
如何なる魂か欠点なき?

おゝ季節、おゝ砦、

何物も欠くるなき幸福について、
げに私は魔的な研究をした。

ゴールの牡鶏が唄ふたびに、
おゝ生きたりし彼。

しかし私は最早羨むまい、
牡鶏は私の生を負ふた。

この魅惑! それは身も心も奪つた、
そしてすべての努力を散らした。

私の言葉に何を見出すべきか?
それは逃げさり飛びゆく或物!

おゝ季節、おゝ砦!

黄金期
アルチュール・ランボー

声の或るもの、
――天子の如き!――
厳密に聴きとれるは
私に属す、

酔と狂気とを
決して誘はない、
かの分岐する
千の問題。

悦ばしくたやすい
この旋回を知れよ、
波と草本、
それ家族の!

それからまた一つの声、
――天子の如き!――
厳密に聴きとれるは
私に属す、

そして忽然として歌ふ、
吐息の妹のやうに、
劇しく豊かな
独乙のそれの。

世界は不徳だと
君はいふか? 君は驚くか?
生きよ! 不運な影は
火に任せよ……

おお美しい城、
その生は朗か!
おまへは何時の代の者だ?
我等の祖父の
天賦の王侯の御代のか。

私も歌ふよ!
八重なる妹(いも)よ、その声は
聊かも公共的でない、
貞潔な耀きで
取り囲めよ私を。

最後に前掲の「航海」があります。

以上のうちの
「(彼の女は帰つた)」
「彼女は舞妓か?」
「幸福」
「航海」
――の4篇は「ランボオ詩集」に収録される時に
なんらかの推敲が行われ完成稿となりますが、
「ブリュッセル」
「黄金期」
――の2篇は、このまま草稿の形で残りました。

海景

銀の戦車や銅(あかがね)の戦車、
鋼(はがね)の船首や銀の船首、
泡を打ち、
茨の根株を掘り返す。

曠野の行進、
干潮の巨大な轍(あと)は、
円を描いて東の方へ、
森の柱へ波止場の胴へ、
くりだしてゐる、
波止場の稜は渦巻く光でゴツゴツだ。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。


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