(一本の藁は畦の枯草の間に挟って)

一本の藁(わら)は畦(あぜ)の枯草の間に挟(ささ)って
ひねもす陽を浴びぬくもっていた
ひねもす空吹く風の余勢に
時偶(ときたま)首上げあたりを見ていた

私は刈田の堆藁(としゃく)に凭(もた)れて
ひねもす空に凧(たこ)を揚げてた
ひねもす糸を繰り乍(なが)ら
空吹く風の音を聞いてた

空は青く冷たく青く
玻璃(はり)にも似たる冬景であった
一本の煙草を点火するにも
沢山の良心を要することだった


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ひとくちメモ



(一本の藁は畦の枯草の間に挟つて)は
未発表詩篇の中では
1935年(昭和10年)に入って
最初の作品です。

長男文也が生まれ
妻孝子がいて
母フクも近くにいて
親族の出入りも
普段の年以上にあったに違いのない
山口県吉敷(よしき)郡湯田温泉の実家での正月。
4月には満28歳になります。

帰郷の主な目的は
ランボーの詩の翻訳に
集中するためでした。

そのせいか
この頃
日記をつけていません。
日記は東京滞在中の習慣なのか
この正月の日記は中断していますので
この詩の中などに歌われる情景が
この頃の詩人の暮らしや活動を
想像させてくれます。

私は刈田の堆藁(としやく)に凭(もた)れて
ひねもす空に凧(たこ)を揚げてた

――とある「堆藁」とは
文字を見ればわかるように
藁(わら)が堆積(たいせき)しているもので
稲や麦などの藁を円筒状に積み上げたもので
これを「トシャク」と呼ぶ
山口地方の方言。

そのトシャク(堆藁)にもたれて
糸をあやつり
凧(たこ)をあげていた、
とありますが
実際に
詩人が凧揚げをしたのか
文也は生まれたばかりですし……。

近所の子らが遊ぶのを
ちょいと貸してもらって
凧揚げしたのかもしれませんし
実際にはしなかったのかもしれませんし
詩人独特の
思い出が混ざっているのかもしれません。
「在りし日」のことなのかもしれません。

よく読むと
「一本の藁」が
モチーフになっているこの詩です。
畦道の枯れ草の中の一本の藁が
陽光を浴びて
温かそうに風に揺れている
その情景を歌うことからはじまる詩です。
一本の藁は
ときどき首を上げ
あたりを見ていた、という
第1連は擬人法です。

やはり
一本の藁は
詩人のことなのでしょう。

草稿の末尾に
「僕は、さう思つた、これらの」とあり
消されたあとがあることが
残っています。
(新編全集)

2枚目以下の草稿の存在が
可能性としてあり
そもそも
タイトルも付けられていない
未完の詩ですが

第3連
冷たく青い空は
まるで玻璃(はり)のようである冬景色の中で
タバコに火を点けるには
神経を集中せねばならず
沢山の良心を要した
という終わり(?)は
いかにも中原中也の詩らしさがあります。

おや
なぜ「良心」なのか、と
考えさせられたままなのですが
「良心」と言ったほうが近い
心理状況にあったのだろうなどと
納得させられてしまうものがあるのです。

やがて
「一本の藁」も
「一本の煙草」も
「一粒の麦地に落ちて死なば」という
聖書の言葉へのダブルイメージへと
誘ってゆくものですが
それは深読みにすぎる、と思い直したり……と
とめどもないものになってゆきます。


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