あばずれ女の亭主が歌った

おまえはおれを愛してる、一度とて
おれを憎んだためしはない。

おれもおまえを愛してる。前世から
さだまっていたことのよう。

そして二人の魂は、不識(しらず)に温和に愛し合う
もう長年の習慣だ。

それなのにまた二人には、
ひどく浮気な心があって、

いちばん自然な愛の気持を、
時にうるさく思うのだ。

佳(よ)い香水のかおりより、
病院の、あわい匂(にお)いに慕いよる。

そこでいちばん親しい二人が、
時にいちばん憎みあう。

そしてあとでは得態(えたい)の知れない
悔(くい)の気持に浸るのだ。

ああ、二人には浮気があって、
それが真実(ほんと)を見えなくしちまう。

佳い香水のかおりより、
病院の、あわい匂いに慕いよる。

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ひとくちメモ

「永訣の秋」のトップが、
「ゆきてかへらぬ――京都――」で、
京都といえば、
中原中也が長谷川泰子と出会った地であり、
それならば、

女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、会ひに行かうと思はなかつた。夢みるだけで沢山だつた。

とある「女たち」は、
「たち」と、複数形ではありますが、
長谷川泰子のことであり、
ほかに、中原中也の交際した女があったとしても、
泰子が含まれていることは間違いなく、

1937年(昭和12年)という、
詩人がこの世から去る年になっても、
(詩人は自分が死ぬことなどこの時には考えてもみなかったのですが)
泰子がここに登場するということに
驚く人がいるかもしれませんが、
それほど驚くべきことではありません。

中原中也と泰子の関係は、
そのようなものだった、と、
余計なことを考えないで、
受け止めた方が自然というものです。

「ゆきてかへらぬ」の次の次の次に置かれた
「あばずれ女の亭主が歌つた」には、
もっともっとビビッドに
泰子は登場しますし、
このタイトルの、
あばずれ女が泰子で、
亭主が中原中也であることは、
もはや、疑いようにないことです。

そのような研究が行われてきたのですが、
これらのことを離れても
詩は読めるのだ、ということも
強調され過ぎることではありません。

あばずれ女がいたんだな、と、
読者は、まず、思い思いに、
あばずれ女をイメージし、
その亭主の口を借りて歌われている詩なのだな、と、
詩句を読み進めながら、
そのイメージを訂正したり、
ふくらませたりしていけば、
この作品に近づくことになります。

ここに歌われている
あばずれ女とその亭主は、
どこにでもよく見かける
普通の男と女です。
「狐と狸」に比べることができそうに
俗っぽい男と女です。
ほとんど、普遍化された
男と女の関係です。

中原中也はそのように、
泰子との関係を思いなしたかったという
希望であると同時に
その関係の終わりをここに来て歌いたかったからでしょうか。

めずらしく通俗的な言葉遣いなのは
「三毛猫の主の歌へる」(未発表詩篇)
「夏の明方年長妓が歌つた」(生前発表詩篇)と似ていますが
ジュール・ラフォルグの詩「でぶつちよの子供の歌へる」や
トリスタン・コルビエールの詩「えゝ?」を
翻訳した経験の影響なのでしょうか。

京都時代のことですから
遠い過去のこととして
リラックスして眺めやることができたからでしょうか。


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