ランボー詩集〜初期詩篇 一覧

神よ、牧場が寒い時、
さびれすがれた村々に
御告(みつげ)の鐘も鳴りやんで
見渡すかぎり花もない時、
高い空から降(お)ろして下さい
あのなつかしい烏たち。

厳(いか)しい叫びの奇妙な部隊よ、
木枯は、君等の巣(ねぐら)を襲撃し!
君等黄ばんだ河添いに、
古い十字架立ってる路に、
溝に窪地に、
飛び散れよ、あざ嗤(わら)え!

幾千となくフランスの野に
昨日の死者が眠れる其処に、
冬よ、ゆっくりとどまるがよい、
通行人(とおるひと)等がしんみりせんため!
君等義務(つとめ)の叫び手となれ、
おおわが喪服の鳥たちよ!

だが、ああ御空(みそら)の聖人たちよ、夕暮迫る檣(マスト)のような
檞(かし)の高みにいる御身たち、
五月の頬白見逃してやれよ
あれら森の深みに繋がれ、
出ること叶わず草地に縛られ、
しようこともない輩(ともがら)のため!

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ひとくちメモ

「烏」Les Corbeauxは
「初期詩篇」の掉尾(とうび)を飾る作品。
中原中也が原典としたベリション版の配置の通りで
20番目の詩ということになります。

トリではなく
カラスです。

途端に
エドガー・アラン・ポーの「大鴉」を
連想する誘惑に駆られますが
これは、ランボーの詩です。
中原中也の翻訳です。

まず読んでみる
そして最後まで
詩を読むこと以外の目的を持たずに詩に向かうほかにない
ファンのスタンスを飽くまで維持します。

神様! 牧場(ぼくじょう)が寒い時、
寂(さび)れたあちこちの村に
アンジェラスの鐘も鳴り止んで
見渡すかぎり花一つない時、
高い空から降ろしてやってください
あのなつかしいカラスたちを。

厳(いか)めしく叫ぶ奇妙な群れよ、
木枯らしは、君たちの塒(ねぐら)を襲撃した!
君たちは、黄ばんだ河に沿って
古い十字架が立っている道に、
溝や窪地に、
飛び散れよ、あざ笑え!

幾千となくフランスの野に
昨日の死者たちが眠っているそこに、
冬よ、ゆっくりとどまればよい、
そこを通る人々が敬虔な気持ちになるように!
君たちは慰霊の導き手となれ、
おお、わが喪服で正装した鳥たちよ!

だが、ああ、空にまします聖人たちよ、夕暮れ迫るマストのような
樫の木の高みにいる貴方たちカラスたち、
五月のホオジロを見逃してやってくれ
あれらは森の深みに繋がれて、
出ることも出来ずに草地に縛られて、
なす術も力もない仲間たちのために!

第2連の「昨日の死者たち」は
普仏戦争の戦死者か
パリ・コンミューンの犠牲者か。

制作年の考証も
一つは1870年から71年にかけての間とする説、
一つは1872年の春とする説に分かれるそうです。

いずれであっても
ランボーは
戦いに敗れた者への鎮魂歌を書いたことは間違いなく
群れなすカラスに
鎮魂の先導者の役割を担うよう
まるで仲間に呼びかけているかに親しげに語りかけます。

中原中也の翻訳は
「四季」の昭和10年(1935年)4月号に
「オフェリア」とともに発表されました。
これが初出です。

両作品は
「四季」へ発表した
最初の翻訳でもあります。

建設社が企画した「ランボオ全集」のために
昭和9年から同10年3月末まで
中原中也は多くの翻訳を完成しましたが
この企画自体が中止されたため
一時は陽の目を見ないで終るところでした。

「烏」が発表された「四季」の同じ号に
ランボーの「オフェリア」とともに
自作詩「わがヂレンマ」も寄稿しています。

同時に
この号には
草野心平が「『山羊の歌』とその著者」という評論を書いていますから
「四季」への発表を薦めたのは
草野心平であったかもしれません。
その可能性が
小さいながらありますが
ほかに交流していた同人が何人かいましたから
草野ではないかもしれません。

ひとくちメモ その2

中原中也訳「烏」Les Corbeauxは
「四季」の昭和10年(1935年)4月号に
「オフェリア」とともに発表されました。
同じ号に自作詩「わがヂレンマ」も発表されています。

「四季」には
季刊「四季」が出された1933年以来ずっと発表を続け
1936年2月発行の第15号からは
正規に同人として加わっています。
前年末に
同人への勧誘があり
中原中也はOKの返事をしたことが
日記に記されていますが
月刊「四季」の同号で同人として活動し始めました。

「四季」同人の顔ぶれを見ておきますと――。
1934年の創刊当時の同人は5人で

堀辰雄
三好達治
丸山薫
津村信夫
立原道造

1936年に「組織改編」が行われて

井伏鱒二
萩原朔太郎
竹中郁
田中克己
辻野久憲
桑原武夫
神西清
神保光太郎
中原中也

――この9人が加わりました。

1933年に
前身というべき季刊「四季」が2回出ていますが
この季刊「四季」と
戦後も3次にわたって出された「四季」と区別するため
1934年創刊の「月刊四季」を「第2次四季」と呼び、
「季刊四季」を「第1次四季」と呼ぶ習わしです。

「第2次四季」にはこのほかに
いはば「顧問格」として
萩原朔太郎
三好達治、室生犀星らがいましたし
寄稿者は延べ300人
同人は多い時で32人を数えたこともありました。

萩原朔太郎はいうまでもなく
三好達治らは
文壇とも交流があり
「文学界」の
河上徹太郎
小林秀雄
深田久弥
永井龍男
今日出海らと接触する機会がありましたし
他にも幅広く活動する同人もあり
中原中也への寄稿の依頼は
色々なルートがあったことが推察できます。

「歴程」の草野心平と中原中也は
1934年に知り合いますが
中原中也は「四季」の「創刊メンバー」だったのですから
草野心平の仲立ちがなくとも
「四季」への寄稿はできたのです。

むしろ中原中也が草野心平に声をかけて
1935年の「四季」4月号への寄稿があったのかもしれません。

いずれにしても
このあたりは
ごくごく小さい可能性の話です。

「四季」編集の実務を中心的に担っていた

津村信夫あたりとのやりとりで
中原中也は「四季」へ寄稿していたと考えるくらいが妥当な線です。

ひとくちメモ その3

中原中也訳の「烏」Les Corbeauxが発表されたのは
第2次「四季」の昭和10年(1935年)4月号ですが
この頃の中原中也の雑誌への発表活動と
ランボーの翻訳への取り組みと
主な身辺状況(■で示す)とを
年譜でざっと見ておきましょう。

年譜に
雑誌の名前が現れるのは
「白痴群」が廃刊した昭和5年(1930年)からしばらく経った
昭和8年(1933年)5月のことです。

1933年
5月、牧野信一、坂口安吾の紹介で同人雑誌「紀元」に加わる。
6月、「春の日の夕暮」を「半仙戯」に発表。同誌に翻訳などの発表続く。
7月、「帰郷」他2篇を「四季」に発表。
9月、「紀元」創刊号に「凄まじき黄昏」「秋」。以降定期的に詩、翻訳を同誌に発表。
12月、■遠縁の上野孝子と結婚。
同月、三笠書房より「ランボオ詩集<学校時代の詩>」を刊行。

1934年
「紀元」「半仙戯」への詩の発表が続く。「四季」「鷭」「日本歌人」などにも多数発表。
9月、建設社の依頼でランボーの韻文詩の翻訳を始める。同社による「ランボオ全集」全3巻(第1巻 詩 中原中也訳、第2巻 散文 小林秀雄訳、第3巻 書簡 三好達治訳)の出版企画があったためである。中也は暮れに帰省し、翌年3月末上京するまで山口で翻訳を続けたが、この企画は実現しなかった。
10月18日■長男文也が生まれる。
11月、このころ、「歴程」主催の朗読会で「サーカス」を朗読。
12月、高村光太郎の装幀で文圃堂より「山羊の歌」を刊行。■発送作業後山口に帰省し、文也と対面する。翌年3月まで滞在し、「ランボオ全集」のための翻訳に専念する。

1935年
3月末、このころ、「四季」「日本歌人」「文学界」「歴程」などに詩・翻訳など多数発表。

1936年
「四季」「文学界」「改造」「紀元」など詩・翻訳を多数発表。
6月、「ランボオ詩抄」を山本書店より刊行。
11月10日、■文也死去する。、

1937年
1月9日、■千葉市の中村古峡療養所に入院。
9月15日、野田書房より「ランボオ詩集」を刊行。
同月、「在りし日の歌」を編集、原稿を清書し、小林秀雄に託す。

※以上は、「中原中也全詩集」(角川ソフィヤ文庫)巻末資料より抜粋しました。

「烏」Les Corbeauxが発表された昭和10年(1935年)は
「四季」「日本歌人」「文学界」「歴程」などに詩・翻訳など多数発表
――とそっけなく記されてあるだけですが、
それゆえ、発表活動が精力的に行われたことを示しています。

ひとくちメモ その4

中原中也訳の「烏」Les Corbeauxが発表されたのは
第2次「四季」の昭和10年(1935年)4月号――。

制作は、この2か月前として
同年2月頃と推定されますが
この頃、中原中也は
建設社版「ランボオ全集」のために
帰省期間を長くして
山口・湯田温泉にとどまり
懸命にランボーの翻訳に取り組んでいた時期でした。

出来立て「ホヤホヤ」の「烏」を
「四季」に発表したことになります。

この年、1935年の正月は
生れたばかりの長男・文也や妻や
家族・親戚・地縁の中にあり
詩人が生まれ育った土地で過ごした上に
前年末には第一詩集「山羊の歌」を出版して
「公私ともに」充実した日々でした。

その中で
「ランボオ全集」全3巻のうちの1巻を占める
ランボーの韻文詩の翻訳に取り組んでいたことになります。
「烏」はその中から生まれた成果でした。

「四季」の同じ号に発表した
ランボーの「オフェリア」は
中原中也の翻訳の中でも傑出した作品ですが
これも同じ時期に生み出された成果でした。

さびれすがれた
御告(みつげ)の鐘
見渡すかぎり花もない
厳(いか)しい
巣(ねぐら)
黄ばんだ河
通行人(とほるひと)
しむみり
御空(みそら)
御身たち
しようこともない

語彙(ボキャブラリー)が豊富で
しかし、一つ一つを
ひねり出してきたような苦吟の跡は
感じられません。

滑らかというものでもありませんが
一つ一つの語が
ピンと立っているところは
他の詩と同様、変わりはありません。

キリスト教に親しかった詩人が
御告、御空、御身などと使う措辞(そじ)も
この詩(の翻訳)に生きています。

だからといって
安楽が生んだ成果とは言いません。
そんなこと言うつもりではありません。
ドメスティックな幸福の時間が
傑作を生んだなどということは言いません。

「昨日の死者」を悼むという原作を
他人事(ひとごと)ではないものと感じる詩人の魂は
日々培われていたはずのものです。

「五月の頬白見逃してやれよ」は、
森深くに住み慣れて
大きな世界へ出ることもできない
草地に生きざるを得ない
「しようこともない」ヤツらホオジロを
しかし、ふと見直してみる時があり
庇護してあげておくれよと
喪服の鳥に呼びかける詩(=ランボー)に
共鳴・共振している風があるのは
この帰郷のせいなのかもしれません。

1935年という年は
中原中也という詩人の活動の
何回目かのピークでした。


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