ランボー詩集〜飾画篇 一覧

朝の思い

夏の朝、四時、
愛の睡気がなおも漂う
木立の下。東天は吐き出だしている
楽しい夕べのかのかおり。

だが、彼方(かなた)、エスペリードの太陽の方(かた)、
大いなる工作場では、
シャツ一枚の大工の腕が
もう動いている。

荒寥たるその仕事場で、冷静な、
彼等は豪奢な屋敷の準備(こしらえ)
あでやかな空の下にて微笑せん
都市の富貴の下準備(したごしらえ)。

おお、これら嬉しい職人のため
バビロン王の臣下のために、
ヴィーナスよ、偶には打棄(うっちゃ)るがいい
心驕(おご)れる愛人達を。

おお、牧人等の女王様!
彼等に酒をお与えなされ
正午(ひる)、海水を浴びるまで
彼等の力が平静に、持ちこたえられますように。

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ひとくちメモ

Bonne Pensée du matinは
「地獄の季節」の「錯乱Ⅱ」の「言葉の錬金術」に
「涙」とともに引用されている詩です。
小林秀雄訳と同じく
中原中也も「朝の思ひ」と訳しました。

昭和12年9月発行の「ランボオ詩集」に初めて発表されたもので
「ランボオ詩抄」には収録されていません。

このことから制作時期は
①「ランボオ詩抄」が発行された昭和11年6月以降で
「ランボオ詩集」の原稿を野田書房に持ち込んだ昭和12年8月頃までの間
②建設社版「ランボオ全集」のために翻訳に集中した
昭和9年9月から翌10年3月までの間
――のどちらかであろうと推定されています。

散文で書かれた詩篇である「地獄の季節」には
韻文詩

「涙」
「朝の思ひ」
「最も高い塔の歌」
「飢餓の祭り」
「永遠」
「幸福」
――の6作品がランボー自らによって引用されています。

「朝の思ひ」を読むときに
必ずしも
「地獄の季節」の中の「朝の思ひ」を参照する必要はないのですが
なぜ、「地獄の季節」にランボーが引用したのかを知ることは
「朝の思ひ」という詩を読む手掛かりになりますから
読んでおくにこしたことではありません。

「地獄の季節」に引用されたテキストと
韻文詩篇と分類された「詩集」の中の同一の詩には
異同があり
この異同は単なる異同ではなくて
どちらかがより完成形に近いもの
バージョンの関係であるということなので、
比較して読むとよいらしい。

二つの詩篇を比べて読むと
ランボーの詩が猛スピードで変化していったことを発見できる、と
「ランボー全詩集」(河出文庫)の訳者・鈴木創士が
「解題」の中で明かしています。
鈴木創士は「地獄の季節」中の引用詩が
「詩篇」の詩に対して「決定稿」の位置にあることを案内しています。

そうとなれば
そこにはランボー詩を読む醍醐味(だいごみ)があるはずですから
ぜひともそのように読んでおきたいものですが……。

中原中也は「地獄の季節」を翻訳していませんし
小林秀雄は韻文詩をわずかしか翻訳していませんし
そもそも韻文詩篇と引用詩篇とが
バージョン関係にあるということについて
研究が進んでいなかった時代のランボー翻訳なのですから
残念ながら
中原中也や小林秀雄の訳では
その醍醐味にふれることはできません。

ひとくちメモ その2

夏、朝の四時に、

愛の眠りはまだ続いている。
木陰の下から蒸発する
祝いの夜の香り。

むこうの、広々とした工事現場では
ヘスペリデスの陽を浴びて、
すでに――シャツ一枚になって――せわしなく動き回る
「大工」たち。

苔むした彼らの「砂漠」では、静かに、
値打ちものの羽目板の準備をしているが
そこに町は
偽の空を描くだろう。

おお、バビロンの王の臣下たる
これらの質素な「労働者」たちのために、
ウェヌスよ! 魂に冠をかぶった
「恋人」たちとしばし別れておくれ。

  おお、「羊飼い」たちの王妃よ、
労働者たちにブランデーを運んでこい、
彼らの力が平和のうちにあるように
正午の海で水浴びするまでは。

これは、
ランボー「地獄の季節」の「錯乱Ⅱ」の
「言葉の錬金術」の中に引用された
「Bonne Pensée du matin」の
鈴木創士による訳です。
(「ランボー全詩集」河出文庫より)

次に
同じ鈴木が
「新しい詩」と分類された
いわゆる「後期詩篇」に
「朝の良き思い」のタイトルで訳したものを読みます。

夏、朝四時に、
愛の眠りはまだ続いている。
木立の下で夜明けが立ち昇らせる
祝いの夜の香り。

むこうの巨大な工事現場では
ヘスペリデスの太陽に向かって、
シャツ一枚になった大工たちが
すでにせわしなく動き回っている。

苔むした彼らの砂漠では、静かに、
値打ちものの羽目板の準備をしているが
やがて町の富は偽の空の下で
笑うだろう。

おお! バビロンの王の臣下たる
これらの素敵な「労働者」たちのために、
ウェヌスよ! 魂に冠をかぶった
「恋人」たちを少し放っておいてくれ。

    おお、「羊飼い」たちの王妃よ、
労働者たちにブランデーを運んでこい、
彼らの力が平和のうちにあるように
正午に、海で水浴びするまでは。
1872年5月

鈴木創士によれば
前者が「決定稿」ということになりますが
後者が作られた(印刷・製本された)のが1873年ですから
およそ1年の間の「変化」ですが
翻訳で「変化」は理解できても
「進化」を見ることは困難のようです。

「音」についての進化が
きっと二つの詩のバージョンには見られるのでしょうが
それを味わうには、
やはり
フランス語原詩にあたるしかないようです。

小林秀雄訳を
読んでおきましょう。

夏、朝の四時、
愛の睡りはまださめぬ、
木立には、
祭の夜の臭いが立ちまよう。

向うの、広い仕事場で、
エスペリードの陽をうけて、
もう『大工ら』は
肌着一枚で働いている。

苔むした『無人の鏡』に、黙りこくって、
勿体ぶった邸宅を、大工らは組んでいる、
街はやがてその上を、
偽の空で塗り潰そう。

ヴィナスよ、可愛い『職人ども』のために、
バビロンの王の家来たちのために、
暫くは心驕った『愛人たち』を、
離れて来てはくれまいか。

ああ、『牧人たちの女王様』、
大工の強い腕節が、真昼の海の水浴を、
心静かに待つようにと、
酒をはこんで来てはくれまいか。

(「地獄の季節」岩波文庫より)

詩の内容は
大体、同じようなものになりますが
「音」は
原詩=フランス語と日本語では
まるで別物ですから
これを翻訳することは不可能といえましょう。

「色」も
「音」に付随しますから
訳するとなると
かなり困難でしょうが
「意味」の訳とともに
「色」は多少なりとも訳されるかもしれません。

「言葉」の翻訳は
こんな風に単純ではないはずですが
「臭い」とか「温度」とか「空気感」とか……
訳せないものはいくらでもあり
訳せないものを訳そうとしているのですから
「あきれた!」なんて言えないのです。
偉大というしかありません。

「朝の思い」Bonne Pensée du matinに
ランボーは
何を歌いたかったのでしょうか――。

鈴木創士は
「労働者」と「大工」と訳し
小林秀雄と中原中也は「大工」と「職人」と訳した違いがあり
詩の主役は
微妙にニュアンスが異なりますが
ランボーがしばしば
侮蔑し痛罵し唾棄する標的ではなく
「仕事をする人」「働く者」への敬意の表明であるのが
「朝」の清冽さとともに
際立つ詩です。

ひとくちメモ その3

中原中也が訳した「朝の思い」Bonne Pensée du matinは
「飾画篇」の4番目にあるもので
1872年5月に作られました。

パリ・コンミューンから丁度1年後、
この1872年5月という時期は
ランボーの創作活動が極めて盛んだったことが知られています。

西条八十は
詩篇そのものに「1872年5月」と記されたものには
「朝の思ひ」をはじめ、

「涙」
「カシスの川」
「渇の喜劇」
「五月の軍旗」
「最も高き塔の歌」(中原中也訳は「最も高い塔の歌」)
「永遠」
――の7篇があるほか

「記憶」
「ブリュッセル」
「ミシェルとクリスチーヌ」(中原中也訳は「ミシェルとクリスチイヌ」)
「恥辱」(中原中也訳は「恥」)
「季節よ、城よ」(中原中也訳は「幸福」)
――や

「黄金時代」
「若夫婦」
「彼女はエジプトの歌姫か?」(中原中也訳は「彼女は埃及舞妓か?」)
「飢餓の祭」(中原中也訳は「飢餓の祭り」)
――などもこの頃の制作と推定しています。

色々な研究があるのでしょうが
西条八十は
これらの作品が
「酔いどれ船」を書く前後の状況の中で作られたことを明らかにしています。

「地獄の季節」の「錯乱Ⅱ」の「言葉の錬金術」で
「涙」とともに引用した「朝の思ひ」を
「試作」としつつ、

 俺の言葉の錬金術で、幅を利かせていたものは、およそ詩作の廃れものだ。

素朴な幻覚には慣れていたのだ。何の遅疑なく俺は見た、工場のあるところに回々教(ういういきょう)の寺を、太鼓を教える天使らの学校を。無蓋の四輪馬車は天を織る街道を駆けたし、湖の底にはサロンが覗いたし、様々な妖術、様々な不可思議、ヴォドヴィルの一外題は、様々の吃驚を目前にうち立てた。

 しかも俺は、俺の魔法の詭弁を、言葉の幻覚によって説明したのだ。
(小林秀雄訳)

――とランボーは自己分析し、もはや「過去のもの」と客体化しています。

ものすごいスピードで
今作ったばかりの自作を
過去の作品と見なす眼差しは
どこから生まれるのでしょうか。

「朝の思ひ」Bonne Pensée du matinは
作られた1872年5月から
幾日を経て
「過去」の作品になったのでしょうか――。

「朝の思ひ」第2連に登場する
「シャツ一枚の大工の腕」もまた
「魔法の詭弁を、言葉の幻覚によって説明した」ものと
考えてよいものでしょうか――。

色々に読める詩を
わざわざ読み急ぐことはありませんから
今は、
19世紀末フランスの郊外の
とある工作場の朝の
「シャツ一枚の大工の腕」を遠望している
詩人の心の眼に
何が映し出されていたのか
今はそれを思ってみるだけでよいのであり
わざわざこの詩から離れることもないでしょう。

ここで明らかなのは
「都市の富貴」(町に住む金持ち)のために働く彼ら・バビロン王の家来のために
ビーナスよ
「心驕れる愛人達」(愛の交歓に夢中な奴ら)は放っておくがよい、
牧人の女王よ
美味(うま)し酒をたんまり振る舞っておくれ、と
彼ら・シャツ一枚の大工たちに成り代って祈る詩人が存在するということです。

「シャツ一枚」の「白」が
エスペリイド(ヘスペリデス島)の方向に
昇りはじめた陽の光に映えて清冽です。

そして
「シャツ一枚の大工の腕」と訳したのは
中原中也の技です。
その技に乾杯です!


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