早大ノート 一覧

こぞの雪今いずこ

みまかりし、吾子(あこ)はもけだし、今頃は
何をか求め、歩(あり)くらん?……
薄曇りせる、磧(かわら)をか?
何をも求めず、歌うたい
ただひとりして、歩くらん

何をも求(と)めず、生きし故(ゆえ)、
何をも求めず、暮らすらん。
何さえ求めず、歌うたい、
さびしとさえも、云(い)い出(い)でず、
ただひとりして、歩くらん。

さば、かくてこそ、あらばあれ、
さてそののちは、如何(いか)ならん?
ただつぶらなる、瞳して、
空を仰いで、ありもすれ、
さてそれだけにて、あるらんか?

もし、それだけの、ことならば、
よしそのうちに、欣怡(よろこび)の、
十分そなわるものとしても、
なお今生なるわが身には、
いたましこととおもわるなり。

なにせよ分らぬことなれば
分らぬこととは知りながら
分りたいとは思うなり
吾子はも如何に、なせるらん。
吾子はも何を、なせるらん。

想いもとどかぬことなれば
想いとどかぬことかなと、
いまさらわれは、思うなり。
せめて吾子はもあの世より
この身にピストル撃ちもせば

こよなきことにぞ思うなるを
さるをピストル撃たばこそ
石ばかりなる、磧(かわら)なれ、
鴉声(あせい)くらいは聞けもすれ、
薄曇りせる、かの空を

眺めてありく ばかりなれ、
げにさばかりのことなれば、
げに命とや、何事ぞ?
なにせよ何も分らねば、
分りたいとは、思うなり。

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ひとくちメモ

「こぞの雪今いづこ」は、
「早大ノート」に書き付けられた全42篇の中の
最も新しい作品で
昭和12年(1937年)に作られたものと
推定されていますが、
この年こそは
中原中也が死んだ年です。

中原中也は
1937年10月22日に
亡くなりますが、
「こぞの雪今いづこ」は
同年4月15日から5月14日の間の制作と
推定されていますから、
死のおよそ半年前の作品です。

詩人は
「在りし日の歌」の編集の最終段階にあり、
完成した草稿を
小林秀雄に託すのは
同年9月のことです。

なぜ、「こぞの雪今いづこ」が
「早大ノート」に書かれたのか――。
それは単純な理由です。

「在りし日の歌」の編集中(第三次編集期)だった
昭和12年春に
「ノート小年時」や「早大ノート」の詩を推敲(すいこう)し
赤インクで手直ししたりしているときに
「早大ノート」の中の空白のページに書き付けたのが
「こぞの雪今いづこ」だったのです。
(「新編中原中也全集 第2巻解題篇」)

第2詩集「在りし日の歌」が
編集された当初の昭和11年前半には、
「去年の雪」が詩集タイトルであり
昭和12年春の段階でも
まだタイトルの候補でありながら、
結局は、「在りし日の歌」になったのは
「こぞの雪今いづこ」が
詩人の満足するものではなく
未決定稿であったために
生前どこにも発表されることがなく
詩集にも収録されなかった……

という経緯をもつ作品ですが
内容は、
前年11月に亡くなった
長男文也の思い出です。
「こぞの雪」は、文也のことです。

いまごろどうしているだろうか
何を求めて歩いているだろうか
薄曇りの河原か
何にも求めずに
歌いながら
ひとりで歩いているだろうか……。

詩人は
前年11月に、
寵愛する長男文也を突然亡くして後、
精神の平衡を失い
昭和12年1月9日から2月15日まで
千葉県にあった
中村古峡療養所に入院します。

退院してから
住み着いたのが鎌倉でしたが、
「こぞの雪今いづこ」を書いたのは
4月15日から5月14日の間でした。
療養の疲れから回復し
第2詩集の編集を再開します。

この頃
空気銃を買い求め
鎌倉の山を散策しました。
キジなどを
撃つつもりだったのでしょうか。

「(略)八幡様の境内で雀を二羽撃つ、もう1羽、たしかに的(あた)つたし、みてゐた者も的つたといふのだけれど、どこに落ちたか分らず。(略)」

と、5月16日の日記に記しています。

5月25日には、

「空気銃をもて大塔宮の方にゆく。(略)」とあり、

山ばかりでなく、
街場にも空気銃を持ち歩いた詩人の姿があります。

この詩に出てくるピストルは、
この空気銃を「詩化」したものです。

空気銃を撃つ詩人は
魂を鎮めることができたのでしょうか
……
……
……
……

詩人から
愛児を失った悲しみが
消え去ることはありませんでした。

死んでしまった、あの子を思うと、今頃は、
何を求めて、歩いているだろうか?……
薄曇りの、河原を歩いているだろうか?
何をも求めずに、歌いながら
ひとりで歩いているだろうか……

それならば、そのようで、あればよいのだが、
その後、どのようになっているだろうか?
つぶらな瞳で
空を仰ぎ見ていることかもしれないが、
さて、そうしているだけだろうか?

もし、それだけのことならば
たとえそうしているだけでも、
よろこびというものが
十分にあるともいえるけど、
今生きている身には
可哀相に思えてくるよ

いずれにしても分からないことで
分からないこととは知りながら
分かりたいと思うのだ
わが子よ、今、どうなっているか
わが子よ、今、何をしているか

思いは届かないこととは知りつつも
思いは届かないことだと
いまさら、思い知ることになる
せめてわが子よあの世から
私のこの身にピストルを撃ってくれれば。

この上もないことだと思うのだけれど
そのようにピストルを撃とうとしても
石っころばかりの、河原なのだろう
カラスの声くらいは聞こえるだろうか
薄曇の、その空には

景色を眺めて歩くだけだ
ほんとうにそんなことだけだから
命とは、何だろう?
何しても何にも分からないことだから
なおさら分かりたいと、思うのだが


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